新NISAの恐怖

 株価の高騰がニュースになっているようです。また、それを追い風に新NISAも話題になっています。政府は国民の資産形成のための制度といっていますが、年金をあてにしないでも老後を過ごせるように、また国民の資産を景気回復に充当しようする意図もあるように思えます。私も保険屋さんや銀行から投資を勧められましたが断ってきました。投資のリスクが隅に追いやられ、税制優遇や政府が保証しているかのようなみんな儲かるといったイメージ先行の恐ろしい制度だからです。


 どうやらバブル崩壊の教訓は忘却の彼方のようです。そもそも楽して儲けようとすることに問題があります。今の時代にはそぐわないのかもしれませんが、儲けるために生きているわけではありません。仕事も給料をもらうためにしているわけではありません。お金は必要ではあっても、人生の最優先事項ではありません。それよりも大切なことはたくさんあります。日々株価の上下に一喜一憂し、仕事も家族も手につかなくなったのでは意味がありません。

 

 ギャンブルと同じようなもので、最初は自分をコントロールできても、いつの間にかのめりこんでしまうものです。真面目に働くのが馬鹿らしくなったら人間は終わりです。流行りに翻弄されることなく、着実に生きていくことが大切なのではないでしょうか。

 

捨ててこそ気づくもの

 日々の何気ない生活こそ大切なのではないかと考えています。何か特別なものを求めるのではなく、日々の「あたりまえ」をいかに充実させていくかが幸福への正道なのではないでしょうか。いつもより「ありがとう」や「いただきます」にもっと心を込めてみる。いつも以上に仕事を丁寧にやってみる、いつもよりも家族に優しくしてみるなど、あたりまえをあたりまえではなくやってみることです。


 同じことを繰り返していると、どうしても飽きたり、雑になったり、面倒になったり、惰性になってしまうものです。しかも毎日であればあるほど質の低下に気づけないものです。そのため損していることもあります。惰性によった生活の質を低下させないことです。豊かな生活とは日々の何気ないシーンを愛おしみ、より充実したものにしていくことなのです。


 昆虫は外灯の強い光に集まりますが、人間は強い刺激を求めるものです。ですが、強い刺激は疲れるものですし、それ以外のものが目に入らなくなるものです。そのため大切なものを見失ってしまうこともあります。仏道は不要なものを捨てていく生活ですが、それは本当に大切なものに気づくためなのです。惑わされることなく、平凡のなかに光を見出していきたいものです。

 

本気な人

 この世界において人が苦しむ原因のひとつに本音と建前があります。私達は自分の思いを抑えることで、時には偽ることで社会生活を営んでいます。けして全員の思いが一致することもなければ、すべての人と分かり合えるわけでもありません。そのため思ってもいない発言も行動もありますが、それは処世術ともいえるのかもしれません。ですが、本音を抑えるほどストレスが溜まり、苦悩が深まるものです。


 たとえば社交辞令で「すごいね」と言っている人と、本気で思って言っている人では大きく違います。本気で思っている人には発見と感動があり、素晴らしい一日となることでしょう。講演などを聞いていても、職業的な話し手は心地よく分かりやすく楽しい話をします。反対に本気で一事を成してきた人の話は不器用ではあっても心が揺さぶられることがあります。表面的なところではなく、深いところに真実の響きがあるからなのかもしれません。


 本気な人には敵わないものです。本気で思っている人は、本気で行動します。本気の人は「そこまでやるか」というところまでやります。その熱意が自分を変え周囲を変えいくのでしょう。私などは効率的であったり、周囲に遠慮してしまいますが、そういった縛りを軽々と越えていくのが本気の人なのです。私も自分の思いを高め、何かを本気でやってみたいものです。

 

人生の期待値

 新聞の大学生調査で将来を考えた時に子供が欲しくないという回答が19%にのぼったそうです。うまく育てられる自信がない、自分の時間がなくなる、経済的に不安、子育てに伴う責任を負う自信がない、精神的に不安、子供を持つ必要性を感じないという順に理由があげられていました。男女比では女性が23.5%、男性が12.1%と女子学生にその傾向が大きいようです。コロナ禍や現在の物価高を経験している学生は将来の不安も強いようです。


 学生の頃は将来への期待と不安が入り交じるものですが、願わくば不安よりも期待を強く持っていただきたいものです。社会は人の心を反映するものです。不安が強ければ、その不安が現実となりやすいものです。知らないうちに不安を現実のものとしてしまうことがあるのです。たしかに自然災害は増えるばかりで、物価も高くなるばかりで、様々な不安材料がありますが、そのうえで楽観的に考えることができれば、そのように進むことができるかもしれません。


 人生は知性で成り立っているものではありません。考えることで答えがもたらされるものではなく、人知を超えたご縁や導きといったものが重要になると思うのです。大事な選択ほど知性に頼るよりも、流れというものに身を委ねたり、考えるよりも勢いで進んだほうが上手くいくこともあります。自分の世界にこもるほど不安が大きくなるものです。広い社会で前向きに様々な経験をしていくことで、自信をもって自分の人生の期待値を高めてほしいものです。

 

こだわらない心

 隣町への主要道路が狭く大変でした。道路拡張の要望看板も立っていますが、両側は住宅街となっており、移転させての拡張は難しいだろうと思っていました。先日、久しぶりに通ってみると、住宅街を迂回するように山側に新しい道路がありました。狭い旧道はそのままありますが、ほとんどの車は新し広くてアクセスの良い道路を走りますから、多額の予算で既存の道路を拡張するよりも効率的に見えました。


 何事も発想の転換が大切なのだと思います。こだわっているうちは新しい発想は生まれません。そのこだわりを捨ててこそ、代わりに得られるものがあるのです。同じ時間とお金をかけるにしても、徒労に終わることではなく、意義のあること効果のあることにかけたいものです。どうにもならないような事態でも、必ず道はあるものです。その道に気づくことができるかどうかが問われるのです。


 情報を仕入れることも、その情報を精査することも必要ですが、それよりも先入観のない心で広く深く物事を考えることです。このような心の状態を整えることが大切なのですが、平時ではなく緊急時こそ求められる心境ですから、日頃からの修練や心がけが、ここぞというときに自分を支える大きな力になってくるのではないでしょうか。

 

相手から学ぶべき事

 信頼関係の維持には不断の配慮と忍耐が求められるものです。親しき中にも礼儀ありといいますが、気を使う関係は疲れますし、古くからの同級生のように好きなことを自由に言い合える関係こそ本物なのだと思うこともあります。ですが、人間関係を選り好みして、楽な関係ばかりを求めてしまう、また表面的な付き合いに終始してしまうと、人として成長する機会を失うことにもなります。


 私は本やネットよりも対人関係で学ぶことこそ智慧につながるものだと考えています。知識は人を成長させることも幸福に導くこともあります。対人関係から何を学ぶかが大切なのです。私は相手の言葉ではなく価値観・習慣・行動・信念などに目を向けるようにしています。相手が言いたいことではなく、その人間を成しているものから学びたいと思うのです。


 表面的な関係では相手のことは分からないものです。信頼できるのかすら分からないのです。些細な会話から急展開することもありますが、それは相手のことを知りたいと思うことがスタートだと思うのです。「どうでもいい関係」を卒業して、様々な年代やタイプの人々と有意義な関係を築いていくことができれば、私の人生を大きく広げてくれると思うのです。

 

陰徳あれば

 陰徳あれば陽報ありといいますが、人知れず善行を積んでいる者は必ず報われるということです。人はまず自分の生活を整えていかなければなりません。ですが、自分のことばかりではなく、周囲や社会のための善き役割を持たなければなりません。善行は目立つためや見返りのためではなく、「させていただく」という謙虚な姿勢でおこなうのが尊いのです。そういう人には天も人も信頼し味方をしてくれるものです。自分の為だけに生きているのは虚しいことです。善意で人とつながり、自分なりの役割をもって貢献できるよう一日一善を心がけ陰徳を積み、善き世界の住人となることで幸福に暮らしたいものです。