甲子大黒天本山のブログ

このサイトは甲子大黒天本山オフィシャルブログとして甲子大黒天の紹介のほか豊かな人生を送るために大切なことを書かせていただいております。

無一物中無尽蔵

 ラジオで1%の人間が世界の99%の富を独占していると問題視していました。富とは資産でありお金のことですが、こういったものにはトラブルがあり、周囲からの憎悪や嫉妬、自らの傲慢や浪費など、様々なものがつきまとうものです。よほどの人でなければ資産よりも、資産に伴う負債によって破滅してしまいます。資産があっても不幸な人が多いのはそのためなのです。


 仏教が執着を戒めるのは、物や欲にはマイナスの感情やトラブルが伴うからです。何もなければ、嫉妬されることも憎まれることもなく、失って悲嘆することもありません。無一物中無尽蔵という言葉があります。個人的には何も持たないことで、すべてが満たされると解釈しています。荷物と一緒で人生においては持てば持つほど苦しくなります。荷物が少ないほど身軽に人生を楽しむことができるのです。


 人生はなるようにしかなりません。ところが政府やマスコミが将来の不安を煽るため、必要以上に先々を心配して今を楽しむことができないのです。将来のために今を犠牲にして、その犠牲で成り立つ未来が幸福だとは思えないのです。必要以上に求めることなく、必要以上に心配することなく、必要以上に比べることなく、今を大切にありのままに生きることが大切なのではないでしょうか。

 


 

終わらない修行

 仏道修行とは、いかに心の平安を維持するかではないかと思うのです。どのような事態であっても、にこやかにおだやかに暮らせることが理想です。ところが、現実は修行の完成度を測るかのように、もしくは未熟さを見せつけるかのように、心を混乱させる出会いがたくさんあるものです。ある人はイライラさせ、ある人は失望させ、ある人は悲しませ、平安どころではなくなります。


 ですが、考えてみれば鏡は必ず汚れますから、汚れるたびにきれいにしなければなりません。水面は必ず波が立ちますが、おさまればおだやかな水面に戻ります。汚れること、波立つことを、なくそうとすることが修行ではありません。憎悪や嫉妬で心が汚れたならば、それらをぬぐい心を清らかに戻すこと。イライラして心が波立ったならば、その波を静めることが大切ではないかと思うのです。


 人間が生きていれば心が醜く濁ることもあれば、波立つこともあります。それをそのままにしないこと、本来の清らかな状態に戻そうとすることが修行なのです。この修行はいつまでも続きますが、それが生きるということであり、修行だと思うのです。完成ということなく、いつまでも自分の心を向き合っていくことが仏道なのです。あきらめることなく、今の自分をありのままに見つめながら、そんな自分を信じて歩んでいきたいものです。

 

言葉の魔法

 今の自分が話していることは現状に対する不満なのか、それとも未来への希望なのか、会話の内容を考えてみなければなりません。言葉も習慣化するものであり、不満が習慣化すればマイナス思考となり、周囲の人々も遠ざかっていくものです。希望が習慣化すれば、何事も前向きに考えるようになり、周囲の人々も楽しそうだと集まってくるものです。


 思考が言葉となって習慣となり、習慣化された言葉が現実となります。良くも悪くも日々の言葉が現実を作り出しています。考えてみれば日々の不満から楽しい毎日が生まれることはありません。不満はさらなる不満につながっていくだけなのです。もっと自分の言葉の力を認識しなければなりません。自分の日々の言葉が、自分への暗示となり、さらに同じ言葉を発している人々を集めるのです。


 言葉を変えれば、心も変わり現実も変わります。心を変えようと思っても難しいわけですが、言葉を変えることはできるものです。やさしい言葉、希望の言葉、明るい言葉を意識することで、心もそのように変わっていき、同じように現実も変わっていくのです。まずは今日一日、一週間、一ヵ月と正しい言葉を使っていくことで、すべてが変わっていくことを実感できるかもしれませんね。

 

 

心の老化

 年齢と共に体が硬くなってきますが、同じように頭も心も固くなっていくように思います。体も頭も心も柔軟であることを心がけなければなりません。固い地面では作物が育ちませんが、頭も心も固くなると幸福の花も咲かくなります。アイディアもセンスもすべて柔軟な発想から生まれてくるものです。体を柔らかくするにはストレッチが有効ですが、頭や心は固定観念と自意識に縛られないことです。


 新しい時代の価値観についていけなくなった時に、たとえ理解できなくても否定しないことが大切です。理解できないことを否定するようになると硬直してしまいます。また、自分のことしか考えることができず、相手に対する配慮がないのも硬直につながります。自分のことばかり考えていると、自分とは違った価値観や発想が理解できなくなります。


 肉体の老化は避けられませんが、頭や心は心がけによって若々しくいることができます。新しい時代の価値観に苦しめられることなく、人間関係のトラブルに悩まされることなく、精神的な負担を軽減できれば日々の生活はおだやかになり、心がやわらかくあれば様々な可能性や人間関係にも恵まれるようになります。外界に向かって幸福を求める前に、まず幸福を感受できるやわらかな心でありたいものです。

 

 

不動心

 緊急事態宣言下での路上飲み会などを見ていると若気の至りともいえますが、根底には「みんなしているから」という言い訳があるように思います。良くも悪くも先頭をきって実行できる人は限られています。多くの人は誰かが動くのを待って、待ってましたと同調するものです。「みんなで渡れば怖くない」ともいいますが、集団には人の理性を麻痺させる魔力があるように思われます。


 誰しも楽をしたいと思いながらも我慢していることがあると思います。自分が我慢しているそのことを周囲の人間が平然としていれば、怒りと同時に自分もやりたいという衝動が強くなります。ダイエットや禁酒をしていれば、周囲を言い訳に解禁してしまいます。コロナ禍によるストレスにより、よくよく考えれば感染拡大につながる迷惑行為のはずなのに、集団心理のなかで路上での宴会がおこなわれるのでしょう。


 1人であれば自制することができても、周囲からの誘惑に負けないのは難しいことです。人間は理性よりも感情が先行するものです。理性のブレーキよりも感情のアクセルのほうが強いものです。葛藤という言葉がありますが、多くの場合には楽なほうに向かうのですが、それが後悔につながっていきます。私達は道理に照らしながら、何物にも負けない不動なる心を養っていきたいものです。

 

 

人間関係の前提

 相手の態度にがっかりすることがありますが、その態度がその人間のすべてではないと思うようにしています。「このことに関して」は私ほどの危機感や情熱はないけれども、私とこの人の優先順位や価値観に違いがあるだけであり、けして相手が間違っていたり劣っているということではないのです。相手の全人格を否定したり失望するのではなく、相手の一部分についてという認識が必要だと思うのです。


 相手の全人格を否定したり失望してしまうと、もはや良好な関係を築くことはできなくなります。全否定の人は人間関係でトラブルを抱えることが多くなります。表現を変えれば、自分の思うようにならない人間はいらないということでもあります。なくて七癖といいますが、誰にでも長所と短所があり相性というものがあり、人間関係は難しいものです。


 人間関係の極意は、評価しない、比べない、求めないことです。「自分は自分、相手は相手」ということはワガママでなければ、相手への失望でもないのです。これらを間違いなく実践できれば、おだやかな関係を築くことができます。人間関係で悩んだならば、相手を全否定していないか、評価していないか、比べていないか、求めていないか、確認してみたいものです。

 

 

教室の外へ

 20数年前に好きだった海外ドラマでプールを金網で囲い泳げないようにするのではなく、泳ぎ方を教えることが大切だというセリフをいまだに憶えています。人生にはリスクがつきものです。いかに社会が進歩して安全安心を求めても、危険のない社会は想像できません。ですから、私達は困難やストレスを回避することばかりではなく、それらを乗り越えていく力を養わなければなりません。


 温室で育ってしまうと暑さ寒さへの耐性が育まれません。教育界において競争であったり集団生活におけるストレスをなくそうとすることは、社会生活で必要な耐性を奪うことになります。ストレスや失敗を経験させないのではなく、ストレスや失敗の乗り越えかたを教えなければなりません。教育とは知性よりも生きていくための強さを学ぶべきだと思うのです。


 探求という名のもと、問題が起こったときに、問題を把握して解決策を考えること、必要な人材を集めること、必要な段取りをすることを授業のなかで学ぼうとしていますが、昭和の時代は教室ではなく遊びのなかで学んでいました。管理されない子供たちの世界が必要であり、そこでの失敗やトラブルが子供達を大きく成長させてくれるのではないかと考えます。