その瞬間から

 久しぶりにワークショップに参加しました。ワークショップに対する偏見なのですが、あまり意味がないと思っていました。その時だけ盛りあがっても、行動や結果にはつながらない、虚しいものだと思っていました。今回のワークショップでは、行動や結果につながる気配があり、進化していることを実感できました。


 ダメだと思った瞬間から、あきらめた瞬間から、取り残されていくのかもしれません。つまらないと思ってやめた人間と、とりあえず続けた人間と、3年たった頃には大きく違っているかもしれません。3年間、何かを続けることは大変なのですが、それなりの成果があるものです。どんな人でも簡単に成果を得ることはできず、どんな人でも継続は力になるのです。


 仕事も人間も夢もダメだと思ったらダメになります。向こうがダメなのではなく、ダメだと思った自分がダメなのです。人生における生殺与奪権は自分にあります。私達はもっとこのことを自覚して、自分を信じなければなりません。世界中の他ならぬ自分があきらめなければ、いつの日か道は開かれていくと思うのです。

 

 

死ねない苦悩

 コロナ禍で講演を聞く機会も少なくなりましたが、久しぶりの講演会で将来的には老いることも死ぬこともなくなるかもしれないと聞きました。さすがにそれはないだろうと思いながらも、そんな世界を想像してみました。自分の選んだ年齢でいつまでも生きられるとしたら、誰もが楽しく生きようとして成長することがなくなるかもしれません。


 人間は限られた時間のなかを生きるからこそ、目標を持とうとし、その過程で人として成長していくのです。永遠を生きるということは、永遠に何もしないということかもしれません。不足するからこそ、努力や創意が生まれ、意義や目的があるのです。満たされた瞬間から人間は不満や虚無を探そうとするのかもしれません。永遠の命は究極の不満と虚無なのかもしれません。


 10世代の同居など考えたくもありません。それ以前に出生率も大きく下がることでしょう。人間は本能的に命のバトンをつなげようとするのは、死に対する最大の準備なのです。命をつなぐことによってこそ、永遠を生きていくのです。生から死までを含めて命の尊厳なのです。いかに科学が進歩しても、越えてはならない一線は守りたいものです。ですが、80歳になったときに30歳に戻れますという誘惑は恐ろしいものです。ですから、最初から発明しなほうが人類のためなのです。

 

 

バランスと統合


 子供から「厳しすぎる」と文句を言わることがあります。そんな時には「自分で自分に厳しくできるなら、いくらでも優しくしよう。でも、それができそうにないから、厳しくしてバランスをとっているのだ」と言うことにしています。子供にないものを与え、バランスをとるのも親の務めだと思うのです。


 厳しすぎるのも、甘やかしすぎるのも、どちらもいけません。張りすぎた弦は切れ、ゆるい弦では音が出ません。何事もちょうど良い加減というものがあります。ストレス社会のせいかアンバランスな印象を受ける人が多くなりました。長所と欠点はそもそも相反するものなのですが、人間はこれを上手に融合し個性とします。「あの人らしい」といった時には、良いところも悪いところも、すべて含めての「あの人」なのです。しっかりと自分という人間が統合されていなければなりません。


誰しも自分が授かったもので、自分という人間を作っていきます。いかに素晴らしいものがあっても、調理が下手であれば、活かすことはできません。素材を知り、相性を知り、統合していかなければなりません。統合してこその個性であり、それによって人として成熟していくのではないでしょうか。

 

あなたならできる

 私は思いついてから実行するまで、かなりの時間がかかってしまいます。良くいえば自分の想いを温めており、悪くいえば色々なことを考えすぎてしまいます。考え始めるとリスクや人間関係など面倒なことばかりが浮かんでは、まるで鎖でつながれているかのように動けなくなってしまいます。考えなしの行動もいけませんが、考えすぎるのもいけません。


 たとえば飛び込み台に立った時、どうせ飛び込まなければならないなら、さっさと飛び込もうと思えるかです。何をするにも恐怖や不安が付きまといますが、克服できなければ前に進むことも実力を発揮することはできません。迷いを払い最初の一歩さえ踏みだせれば、あとは自然と流れに乗ることができます。


 無駄なく着実に考え、行動と結果が一体となっているのが理想です。本来はすべてがつながっているのですが、それを自分で切ってしまっているのです。自分を信じ可能性の糸を切らないようにしなければなりません。よく達成できないこと、克服できないことは、与えられないといいます。思いついたということは、実現できるということなのです。もっと自分を信じてみたいものです。

 

 

相手に何を求めるか

 私は相手のどこを見ているのかと考えることがあります。第一印象としては容姿や服装などでしょうか。第二印象としては態度や声などでしょうか。第三印象としては人柄などでしょうか。会話が進めば出身地、職業や役職、学歴なども分かるようになり、それによって見方が変わることもあります。あまり良い印象はなかったのに同郷だと分かって親しくなった。どうでも良かったのが取引先の人間だと分かって態度が急変することがあるかもしれません。


 1人の人間が抱える情報というものは案外多いものです。履歴書に書けるものは表面的な過去の記録です。しかし、履歴書で人を選ぶと失敗することが多い思いますが、人間としての大事な部分は履歴書には書けない部分なのです。いわば見えない部分をいかに見るかということが大切なのです。相手の表面的な部分に一喜一憂するのではなく、人間的な部分を重視しなければなりません。


 人間的な部分は付き合ってみなければ分かりません。毎日、焼肉だと飽きてしまいますが、食事も人間もバランスが大切なのです。バランスが悪いと最初は面白くて刺激的でも、だんだん疎遠になっていきます。なくて七癖といいますが、長く付き合うためには相手の長短を認められる相性や関係性が大切です。特別なものを求めるのではなく、空気のようなあたりまえの存在感が大事なのかもしれませんね。

 

 

成長のチャンス

 良くも悪くも今の状態が永遠に続くわけではありません。私達は経験からそのことを学ばなければなりません。若い人などは些細なことで自分の人生に絶望する人もいますが、それは素晴らしい未来を想像することができないためです。楽観的な想像力も必要であり、不安と悲観のスパイラルに陥らないようにしたいものです。


 自分の未来や可能性を信じるためには、今を耐えなければなりません。不平不満に埋もれるのではなく、積極的に耐えることです。これは今の自分に不足しているものを補うことであり、力をつけるということです。無暗に現状を否定するのではなく、現状の理由や原因に気づかなければなりません。まずは知るからこそ対処できるというものです。


 潮も満ちれば流れが変わりますが、人生においても必要な条件を満たすことができれば変わるものなのです。何もしなければ何も変わりません。人間はどこかのタイミングで成長しなければならないのです。成長を実感できてこそ、自分の未来を信じることができるのです。言い訳せず現状に耐えていくなかで、必ず成長のきっかけが訪れるものです。


 

写経の極意

 当山では写経体験を受付けています。動機も感想も様々で正しい答えがあるわけではありません。まずは体験してみることが大切ではないかと思っています。体験しないうちから論ずるのではなく、やってみる、続けてみる、その先に自分なりの答えが見つかるはずなのです。日本では奈良時代から写経がおこなわれ、時代によって目的も変わってきましたが、今の時代にこそ必要なものだと思っています。


 現代は暇だとすぐにスマホをいじります。静かにたたずむ時間が欠落しているのです。夕日が沈むのを見ながら人生について考える人は少ないと思いますが、そういう時間も大切なのです。個人的に写経とは自分の想いを高め清める修行だと思っています。写経をしていても無心にはなれないものですが、それでいいのです。様々な想いを抱えながら、写経をしていくことで、その想いが清められるのです。


 ぎっくり腰はたまった疲労が突然あらわれます。くしゃみをしてぎっくり腰になる人もいるそうですが、くしゃみはきっかけであり、原因は疲労です。写経によって想いが清められていくと、ふとした気づきを得られることがあります。今まで考えもしなかったことです。今までの自分よりもひとつ高い視点といえるかもしれません。様々な気づきがパズルのようにつながり、新しい自分に成長することができるのです。いかに自分の想いを高め清めるか、その方策のひとつが写経なのです。