甲子大黒天本山のブログ

このサイトは甲子大黒天本山オフィシャルブログとして甲子大黒天の紹介のほか豊かな人生を送るために大切なことを書かせていただいております。

未来の自分のために今を生きる

 縁日などに行くと紐の先に景品がついたくじ引きがあります。高価な商品もぶら下がっていますが、はたしてどういう仕掛けになっているのでしょうか。縁日はさておき、日々の言動が最終的にはどこにつながっていくのかを考えることも必要です。不用意な一言を自分はすぐに忘れてしまっても、相手は一生忘れることなく怨まれるかもしれませんし、もしかしたら大事なところで裏切られるかもしれません。今日の怠慢が20年先の後悔につながるかもしれません。


 ある意味、人生は後悔の連続なのかもしれませんが、それは先々を見据えて今を生きていないからなのかもしれません。「未来の自分のために今を生きる」という視点を持つことで、今の生活が充実してきますし、未来の自分も輝いてくるのかもしれません。もしかしたら今の「面倒くさい」は未来の「あの時のおかげで」になっているかもしれません。今の「楽しい」は未来の「もっとあの時に」になっているかもしれません。


 自分も人生も長い時間をかけてつくっていくものですが、長い目で見ることが大切だと思うのです。未来の自分に何を期待するのか、どのような人間になっていてほしいのか、そこから逆算して少しでも自分の未来に貢献したいものです。10年後の自分がどのようになっているのか、まったく分からないわけですが、だからこそあきらめることなく頑張ってみたいと思うのです。

 

不都合な気づき

 一人で生きている訳ではない我々にとって自分のことばかりではなく、相手に対する配慮も大切です。たとえば自分の努力だけではなく、相手の努力にも敬意が必要です。「こんなに頑張ってきたのに」と思うのは自然な感情ですが、さらに「相手も自分以上に頑張ってきたんだ」と思えることで、事実を素直に認めることができるようになります。また、自分の悲しみばかりではなく、相手の悲しみにも敬意が必要です。「どうして私ばかりが」と思うのではなく、「自分ばかりではなく」と周囲の心や経験にも目を向けられると自分の悲しみも素直に認められるようになります。


 何事も自分中心で考えてしまうと傲慢になったり卑屈になってしまいます。人は自らを律していかなければなりませんが、自分への執着から離れることで、正しく物事を判断し受け入れていくことができます。広く世の中を見て判断していくということは、自分にとって不都合なことも見なくてはならないということです。自分の未熟さや失敗もちゃんと認めなければならないということです。自分の世界に逃避していれば、不都合なことは誤魔化せます。しかし、公正に自分を見ようとすればするほど、不都合な気づきがあるものです。しかし、その気づきがあることで成長することができるということを肝に銘じたいものです。

 

 

上杉家に学ぶ

 地元米沢は上杉の城下町といわれていますが、戦国時代に上杉家は義を尊び、義があるかどうかを基準に戦っていました。豊臣秀吉が死去し天下の情勢は徳川側が有利になっていきます。徳川家と隣接する上杉家は徳川についたほうが有利なのに豊臣側として戦いました。さらには徳川勢が石田三成を討つべく引き返した折には義がないと後ろから攻めることをしませんでした。その結果、五大老であった名家は米沢へと左遷され大幅厳封とされました。勝敗や打算よりも義をもって戦ったのが上杉家でした。そのための苦悩・苦難も多々あったとは思いますが、家風が変わることはありませんでした。


 人それぞれに生きるための基準があります。他人の基準を評価する必要はありませんが、自らの基準については吟味し高めたいと思っています。世の人々を見ていると生き方がぶれている人ほど苦しんでいるように思えてしまいます。周囲に言われてコロコロ変わったり、失敗するとすぐに変節したり、言っていることとやっていることが矛盾していたりすると上手くはいかないものです。人生の勝者は筋を通せる人です。自分の生き方に誇りをもって、自分を信じあきらめない人です。もちろん盲目的な人とは違います。信念をもって流されることなく生きてみたいものです。

 

 

 

次の試練にそなえて

 窮鼠猫を噛むという言葉がありますが、人間も窮地に立たされた時こそ真価が問われますし、向上の好機でもあります。人生には必ず何度かの試練の時が訪れるものです。その時に何を考え何を成すのかで人生が大きく変わってきます。窮地における判断や行動は、日頃の自分がそのままに表れるものです。大きな場面ではいつも以上に頑張ろうと思うものですが、日頃から発揮できない力を出すことはできないものなのです。


 日々の心がけに勝るものはありません。久しぶりの同級会に参加すると見違えるような人物がいるものです。そういう人は相応の時間をかけて自身を磨いてきた人なのです。同級会だからと前日から張り切っているだけの人とは違います。中学校の試験のように定期的な試練によって試されおり、試練はチャンスでもあります。上司からの意地悪、周囲からの面倒事の押し付け、家庭内の問題など、自分に与えられた試練だと考えチャレンジしてみたいものです。


 何事も嫌々やるのが最も失礼です。態度からも表情からもすぐに分かります。自分にも相手にも周囲にも迷惑にしかなりません。どうせなら良い意味で相手の想像を超えたいものです。自分を変えたいと思うならば、現状から脱出したいと思うならば、試練に立ち向かい結果を出さなければなりません。間もなくやってくるであろう次の試練に向けて意識を高め準備しておきたいものです。

 

 

矛盾の融合

 社会に対する不満というものは、いつの時代にもあるものだと思うのです。政治、若者、価値観の変化、道徳の荒廃など、その対象も昔から変わらないのかもしれません。長い歴史のなかで今の時代だけが特別に問題があるということではありません。様々な紆余曲折を経ながら時代は流れており、長く大きな目で見るならばどの時代も同じようなものであり、順調に流れているということなのかもしれません。


 現状に問題意識を持つことと否定することは違います。不満というものは問題意識というよりも、理解や努力のない否定と表現できるのかもしれません。完全ではない人間が形成する社会には必ず問題が存在し、ひとつの問題を解決すれば次の問題が現れるといった具合です。消滅することのない問題に囚われ不満や悲嘆に埋没するよりも、問題をあたたかく見守ることができるほうがストレスなく暮らせると思うのです。


 誰もが理想や正義を求めながらも、完全には実現できないのが人間の社会です。それは人の弱さや愚かさを含む生活なのですが、そういった生活を愛おしむことができる人は幸福だと思うのです。理想や正義を求める心も必要ですが、弱さや愚かさを認められる心もまた大切だと思うのです。このふたつの心をバランスよく保つことで、矛盾に満ちた社会にあっても迷うことなく歩めるのかもしれませんね。

 

 

 

地味な生活の先にこそ

 人生には楽しく充実して我が世の春といえる時期もありますが、それは一時のことであり、基本的には地味な生活の連続といえるのかもしれません。子供の頃に想像していた人生とは違うのかもしれませんが、それこそがリアルな人生なのかもしれません。年を取るほど忙しく時間に追われ、日々の生活が単調になっていくように感じられます。友人と話しても話題は昔話ばかりというのでは寂しい気持ちになります。


 今の生活を否定しても意味がないことを知りつつも、不満は増大していくばかりで、いくあてのないエネルギーが虚しく消費されています。私達にできることは今の生活を愛おしみ丁寧に生きることだけなのです。今の生活を捨てて、新しい生活を得ることなどできません。今の生活の延長線上でしか生きることはできないのです。今日の生活を楽しめないのに感謝できないのに、輝かしい未来が訪れることはありません。


 普通の人は何をするにも変えるにも蟻の歩みのように遅く時間がかかるものです。ですが、自分という存在が変わらずに自らの人生が変わるということはありえません。どこまでも自分を信じ地味と思える生活を大切にしていくしかありません。蝶は幼虫やさなぎの時期を懸命に生きたからこそ最後のご褒美として華麗に空を飛ぶことができます。私もいつの日かご褒美がいただけるよう今という時を大切に生きたいと思うのです。

 

 

道徳と法律どちらを選ぶ

 法律と道徳について考えてみました。法律は「してはいけないこと」をまとめており、違反すれば相応の罰則も規定されています。道徳は「すべきこと」をまとめていますが強制力はありません。その性質によって法律は守られますが、道徳は社会が荒廃するほど遵守されなくなります。道徳の広がりを見れば、その社会の成熟度が分かるといえます。


 法律を守ることは義務ですが、守ることによって治安が良くなるといった社会的な利益はありますが、個人的な利益を得ることはありません。あくまで最低限のルールというだけなのです。道徳に強制力はありませんが道徳を守ることで、人から信頼される、人として向上できる、誠実・勤勉に生活することができ、最終的には生きる最大の目的である幸福に近づくことができます。


 法律は細かく決まっており、それをいわば盲目的に守るだけです。道徳は自分で善悪を判断し責任を取らなければなりません。法律はすべての人を対象にしており、道徳は心ある人のみ修することができます。愚かな人は法律を守り、豊かな人は道徳を守ることで法律をも守っています。学校でも道徳の授業が行われていますが、やはり大人になってから自ら望んで道徳を学び人間力を磨くことが大切なのではないかと思うのです。