捨ててこそ

 高度成長期は持つことが推奨された時代でした。まず白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が。次はカラーテレビ、クーラー、車が三種の神器とされました。他にもブランドや旅行や外食など日本中が好景気に踊った時代ともいえます。消費が大きくなれば経済は成長し好循環が生まれます。政府も経済も国民もすべて順調だった時代です。その後のバブル崩壊による失われた30年と揶揄される時代を経てもいまだに物欲が社会の大きな原動力となっています。


 仏教では持つことよりも捨てることを重視します。持てば持つほど欲しくなるのが欲というものであり、小欲知足の程々の生活を説いています。経済理論には逆行しますが、精神的には捨てることで豊かになれるのです。欲を捨てる、意地を捨てる、コンプレックスを捨てる、傲慢や妄信を捨てる。自分に不要なものを捨てることで楽になれるのです。


 私は自分を縛る様々なものを捨てていくことで本当の自分が見えてくるのではないかと思うのです。本当に必要なのかと吟味をして断捨離をして、それでも残ったものが本当に価値あるものであり、本当の自分なのではないかと思うのです。また、間違って捨ててしまったからこそ、その大切さに気づけるとこもあります。部屋に物があふれていると、その価値が分からなくなります。たくさんあるなかのひとつという程度になってしまいます。社会に暮らす大勢のなかで自分という存在を確立するための、ひとつの方法はこれしかないというものを自分のなかに見出すことなのかもしれません。そのためにはまず不要なものを捨てなければなりません。

 

お金では買えない日々

 もし1億円をもらう代わりに明日死んでしまうという条件を出されたら、1億円をもらう人はまずいないと思うのです。大金があっても使うことができなければ意味がありません。お金以上に命が大切なのです。表現を変えるならば私の明日には1億円以上の価値があるということです。それだけの価値を持つ命を持ちながら、その本来の価値を認識できないための苦悩があります。


 今日という1日を過ごすだけでも素晴らしいはずなのに、楽しむことができずイライラして1日が終わってしまう。自己嫌悪で終わってしまう、険悪な関係のままで終わってしまう、後悔したまま終わってしまう。望まない形でせっかくの1日が終わってしまうのは残念なことなのです。もっと1日の価値を高められるよう、まずは意識から高めたいものです。せっかくの1日を素晴らしいものにしたいと毎朝想うだけでも違ってくると思うのです。


 死後、閻魔大王の裁きを受ける時に浄玻璃鏡(じょはりのかがみ)の前に立たされ生前の行いを鏡に映されるといいます。最も善き善業は何か、最も悪しき悪行は何か。私は自分のなかで最も善かった行いも、悪かった行いも自覚できないでいます。鏡にどのような自分が映し出されるのか分かりません。ですから今日一日を大切にしていくしかありません。お金では買えない大切な1日に満足と感謝ができるようにしたいものです。

 

望まれる人

 人望は人に望まれると書き、徳望は人に望まれる徳と書きますが、自分本位ではなく、相手にとって、私という人間はどうなのかという視点が大切だと思うのです。そのように考えることで自らの欠点を補い、人としての深みを養うことができるのではないでしょうか。人の目を気にしすぎると、自分の思いを抑圧し迎合することでストレスになります。ですが、まったく気にしないと周囲の想いに気づくことができなくなります。


 第三者の目線で自分を見つめることも必要だと思うのです。これは相手の立場に立って考えるということでもあります。自分のことばかりを考えていると周囲とのギャップが大きくなってしまいます。自分は正しいと思っていても、良かれと思っていても、周囲の迷惑になっていることもあります。自分を客観的に見つめることは難しいものです。


 一人では生きられない社会だからこそ信頼関係が大切です。信頼は相手からどのように思われるかにかかっています。相手が求める言動を提供できるのか。さらにその言動が自分にとっても相手にとっても適切なものであるのか。さらには周囲をいつの間にか感化できるのか。相手の期待や想像を超えることができるのか。様々な経験のなかからお互いにとって正しい答えを見出せるよう人間力を磨いていくことで、望まれる人間に近づきたいものです。

 

幸福の収穫

 実りの秋となりました。様々な食材が収穫を迎えるまさに食欲の秋です。一般消費者はあたりまえのように購入して食べる訳ですが、それを出荷する農家さんはじめ生産者の苦労は大変なものだと思います。近年の異常気象は世界中の一次産業に深刻な影響を与えています。お金があっても、食べたいものを食べられない時代は近いのかもしれません。今後ますます食に対する感謝と環境や生産者への配慮が求められる時代になります。


 何事も種をまかなければ収穫はできません。人生も種まきと収穫の連続です。種をまかずして果実を求める人も多いものですが、それは道理に反しています。数学の方程式が絶対なのと同じように、人生における道理も絶対なのです。また、悪しき種をまきながら、その結果を嘆くというのも道理に反しています。すべて自分の蒔いた種であり因果応報なのです。


 結果で物事を計るのではなく、善き種まきをしなければなりません。最初が肝心であり、スタートが間違っていれば、どこまでも間違いが続いてしまいます。日々、先々のことよりも今日一日に最善を尽くして、善き一日とすることが幸福へとつながっていくのです。お釈迦様は心を耕せと教えていますが、善き心から善き言動が芽生え、それが成長して幸福の実を結んでくれるのです。幸福は偶然やってくるものではなく、大切に育てるものなのです。

 

嘘の結末

 袴田事件が58年を経て無罪判決となりました。この年月を賠償することも責任を取ることもできないできないように思います。どうしてこのようなことが起こってしまったのか。おそらく自分達の都合で無実の人間を死刑囚にしてしまった当時の関係者も後悔に苦しんでいたのだと思います。もちろん、それで許されることではありませんが、国家権力ゆえに過ちを認めることができなかった恐ろしさがあります。


 嘘を嘘で塗り固めるという表現がありますが、嘘は時間が経つほど、関わった人間が多いほど、許されない嘘であるほど、なんとかして嘘を真実にしようとするものです。そのため相手も自分も苦しむことになります。3年5年と嘘をつき続けること、その嘘を守るためにさらに嘘を重ねること、後悔や自己嫌悪の日々など嘘をついて良いことなど何もありません。


 最初から嘘をつかないことが賢明なのです。そのためには素直に謝る習慣を持つことです。謝ってしまえば、その場で終わることも、嘘をついてしまえばどんどん悪化していきます。人間には自分を守りたいという本能があります。失敗や悪事など親しい人にほど知られたくないと思いますし、何としても、たとえ嘘をついても手にしたいものがあったりします。すべては欲なのですが、その欲に翻弄され嘘は不幸の始まりであることを忘れないようにしたいものです。

 

おみくじに思う

 たとえばおみくじを引いて中吉だったとします。大吉と比べれば運気は良くありませんが、小吉と比べれば良くなります。良いものと比べては落胆し、悪いものと比べては安堵するものであり、比べるものによって結果が変わるのではあれば、比べることに意味はありません。それなのに人間は「私はどうなのか」という大事な視点を忘れては、周囲と比べては一喜一憂してしまうものです。


 おみくじであれば運勢よりも、書かれている神仏の教えのほうが大切なのです。その教えを謙虚に受けとめ活かすことが本来のおみくじの意義なのです。社会においても成果や苦労を周囲と比べるのではなく、謙虚に受けとめ次に活かすことが求められます。周囲と比べて安心したいのも人情ではありますが、自分を苦しめることになってしまいます。


 人はそれぞれに性格も環境も能力も違います。正しく比較しようとしても比較はできないのです。また、物事の結果には周囲からは見えない部分が大きく関わっていることがあります。影の努力を知らず、楽して成果を得ていると思ってしまえば、正しい評価も良好な人間関係も得ることはできません。周囲との比較ではなく、自分で満足していくしかありません。難しいことではありますが、「やるだけはやった」という自信と安堵を得られるよう、それなりのことを積んでいきたいものです。

 

 

苦難にあって

 奥歯が痛くなり歯医者に行ったら親知らず周辺が炎症しており、紹介状を書くから口腔外科で抜歯するよう勧められました。とりあえず洗浄してもらったら痛みはなくなりました。落ち着いたので、このまま様子を見ようかとも思ったのですが、診察だけ受けることにしました。レントゲンを撮ると親知らずに関連した別の病気も見つかり、手術することになりました。


 痛みのおかけで病気が見つかったわけです。何事か問題が起こると、見ないふりをしたくなります。棚上げにしてしまうのが楽なのです。会議などでは「では、今後の検討課題として・・・」で棚上げにされることが多々あります。ですが、眼前の問題は必要だから起こっているのです。いわば天からの啓示のようなものです。しっかりと向き合うことで、今の自分に必要なものを得ることができるのです。


 克服すれば面倒な問題が、その姿を変え新たなる力となって自分に備わるのです。ですが、問題をそのままにしておけば、いつまでも問題のまま苦しむことになります。転機は問題や不満から生まれてくるものです。勇気をもって思い切って踏み込めば、なんとかなるものです。解決できない問題は与えられないといわれます。本気になれば、人生の大きな転機となりうるのです。苦しい時ほど限界を超えるチャンスだと思い、知恵を絞り、技術を磨き、心を高めることです。