私のプライド

 中国ではゼロコロナ政策に対するデモが頻発しているようです。もう我慢の限界といったところでしょうか。中国政府もゼロコロナ政策の転換を示唆したようで、世界中に影響を与えている政策がどのように変わっていくのか、気になるところです。以前の中国ならば、デモに屈することなく制圧していたことでしょう。体面を重んじ、間違いを求めるようなことはありませんでした。


 意地を張るから苦しくなるのです。素直に謝ってしまえば、間違いを認めてしまえば、すべてまるく収まるのに、それができない人が多いものです。時間が経つほど、できなくなりますから、とっさに反射的に非を認めることが大切ではないかと思うのです。宿題にして持ち帰るのではなく、その場で片づけてしまえば楽なのです。


 プライドという言葉を勘違いしている人がいます。プライドとは自尊心や自負心と訳されますが、謝らないことではありません。自分に非があると思えば素直に謝ることをプライドとしてほしいものです。人を見下すことがプライドではなく、誰とでも誠実に対応することをプライドとしてほしいものです。意地を捨て、見栄を捨て、欲と怒りを捨て、このように不要なものを捨てることができれば、どれだけ日々の生活が楽になることか。少しでも実践してみたいものです。

 

悲観的に考えて楽観的に

 当山の起源となる山岳信仰について学ぶため現地に足を運んでいますが、現在は跡地となっています。明治前後の廃仏毀釈によって、建物はすべて失われてしまい、難を逃れた仏像が当山に伝えられています。周辺の歴史を調べると同じように消失した寺院もあれば、建物はそのまま神社になったところもあります。今回参拝したところはいち早く神社になったことで、貴重なお堂や文化財が残されていました。


 廃仏毀釈という日本における宗教弾圧のなかで、信仰を護るのか、本堂や文化財を護るのか。難しい判断だったと思います。何を大切にするのかという選択であり、正しい答えがある問題ではありません。どちらも失うものは大きく、苦渋の決断だったと思うのです。いつの時代にもターニングポイントがあり、いち早く気づき、いち早く対処することが大切です。


 他人事ではなく、自分事ととらえることで、先手を取ることができるのです。対岸の火事と思い込み、いつの間にか尻に火がついてからでは遅いのです。私は悲観的に考えてから楽観的に考えることが大切だと思うのです。最悪のシナリオがあり、そこから希望をもって歩んでいくイメージです。今後ますます変化の激しい時代になりますが、変化の波に翻弄されることなく、希望をもって臨みたいものです。

 

自分をアップデート

 サッカーワールドカップで強豪ドイツに勝った日本代表に日本中が歓喜したことでしょう。私の場合には熱烈ということはなく、勝ってほしいけれども、現実は厳しいかと思っていました。ですが、勝負というものは分からないものであり、先入観や固定観念に縛られてしまうと、正しい判断ができなくなってしまいます。相手を過剰評価しても、自分を過小評価してもいけないものです。


 正しい評価というものは難しいものです。大切なことは「やってみなければ分からない」と考えることなのかもしれません。やる前からあきらめるよりも、勝負してみることです。経験してこそ、漠然とした思いを具体化するためにも経験が必要なのです。経験によって今の自分の位置を確認し、これからどうすれば良いのかが分かります。


 世界は絶えず変化していきます。自分の経験や価値観が今も通用するものか考えなければなりません。そして修正していかなければなりません。政治家の失言などは時代錯誤の価値観をいまだに抱えているから起こるのです。好むと好まざるとに関わらず、この社会で生活するためには、つねに自分をアップデートしていかなければなりません。昨日の試合は残念でしたが、次は頑張ってほしいものです。

 

コロナ禍の無常観

 なかなか終息しないまま第8波が到来しているようです。ある調査でコロナ禍における価値観の変化として無常観が増加もしくは定着したという結果がありました。現代の生活が意外と脆く儚いものであるという認識が強まったのではないかと思います。まさか未知のウイルスの流行が世界中で3年間も続くとは誰も思わなかったことです。


 コロナ禍により今まで当たり前だったことが制限されるようになりました。不自由な生活を強いられ、生活や将来に対する不安も増大しました。無常感も増大するのは自然なことだと思うのですが、そもそもこの世界は無常なる世界なのです。人類は文明の発展によってそのことを忘れていただけなのです。


 仏教は無常を根底においています。いわば仏教の出発点なのです。この思うようにならない世界で、いかにおだやかに暮らすかが仏教なのです。コロナ禍が社会や生活を見直すきっかけになればと思うのです。けして煩悩と戦うだけが仏教ではありません。思うようにならない人生を受け入れ、それを楽しむこともまた仏教なのです。

 

探求型学習のその先へ

 あまり共感できませんが、小学校から探求型の学習が取り入れられています。私などはまず基礎学力をつけてからの探求であり、詰込みと非難する前に基礎を大切にするべきだと考えています。以前の論語の暗唱などは基礎だけではなく道徳にも通じ生涯の宝となる学習だったと思っています。ゆとり世代が非難され、新しい学習が取り入れられましたが、現在はまたゆとりに戻ってしまったような印象を受けます。


 探求とは、自分なりの答えを導き出す能力だと思うのです。ところが、現代は安易な答えに安住している人が多いように思います。どうせ頑張ってもしかたない、もう私の居場所なんてどこにもない、何をやってもつまらない。これらの答えは安易すぎると思うのです。その答えを得るまでにどれだけの努力や忍耐をしたのか。求めていないからこその答えだと思うのです。


 人生においては、自分で答えを作り出していかなければなりません。待っているだけで、自分の期待が実現することはありません。探求型にというならば、知識を求めるのではなく、自分の人生に夢や理想を求め、それを実現していく力を育んでほしいと思うのです。与えられた答えに満足することなく、自分が納得できる答えを探していくなかに、成長と生きることへの喜びがあるのではないかと思うのです。

 

熱意と準備

 私は何事も熱意と準備だと考えています。できる人ほど熱意があり陰ながらコツコツと準備をしています。そしてチャンスが巡ってきたならば、即座につかむことができるのです。できない人は普段から何もせず、チャンスが巡ってきても言い訳をして終わってしまいます。やりたいことがあり、そのための努力や準備ができ、チャンスに挑む勇気があり、結果を得られるのだと思うのです。


 活躍している人ほど、見えないところで頑張っているものです。外野は勝手なことを言いますが、そういったものに左右されることなく、自分の信じる道をひたむきに歩んでいる人は強いものです。厳しい道を歩む人ほど、より大きくなっていきます。楽な道など選ばず、厳しくとも確かな道を見定め歩んでいきます。


 部活を思い出しても地味な体力づくりに基礎トレが中心でした。ですが怠けず単調でつまらないことに本気になれ継続できる人が強いのです。仕事も人間関係も基本が大切です。基本を疎かにせず磨いていけば、どのような仕事もどのような関係も円満にこなせるようになります。新しいことや刺激的なことを求めるよりも、あたりまえのことを、あたりまえにこなしていきたいものです。

 

信頼関係の基

 交通ルールを守らなければ事故になります。子供の頃は交通教室で、大人になれば教習所で交通ルールを学びます。大多数の人間が交通ルールを守ることで安全安心な通勤通学が実現します。人間関係においては、交通ルールの代わりに道徳があります。交通ルールと同じく、大多数の人が道徳を尊重すればトラブルなく安らかに生活することができます。


 道徳は算数などとは違い自然と身につけていくものです。本を読んで学ぶということでもなく、年長者に怒られたり、失敗や反省から学んでいくものです。生活のなかで学び実践していくものです。道徳は言語のようなものでもあり、共通の道徳を持ち合わせていれば、暗黙のうちに理解共感できるものです。ところが、道徳が欠如していれば、コミュニケーションが成り立たないということもあります。


 自分の基準や価値観を考える場合に、世間一般の常識や道徳を身につけているか問わなければなりません。私は言葉で会話することよりも、価値観を共有できるかが大切だと思っています。価値観とは自分が今まで育んできた人生の履歴書であり、お互いに見せ合った時に共感が生まれなければなりません。価値観の多様化といわれますが、しっかりとした基本があってこその個性であり多様性だと思うのです。その基本とは道徳であり、この部分でつながることができないと信頼関係を築くことはできません。