木と人を比べるならば

 毎日、山を見ながら生活していますが、山にある木々には同じものはひとつもなく、人間社会に似ていると感じるものです。まっすぐな木もあれば、曲がりくねった木もあり、樹勢も種類も様々ですが全体でひとつの山を形成しています。人間を木に例えるならば葉は日々の言動、枝は個性や価値観、幹は育ってきた環境や経験ではないかと思うのです。そして木を支え水分を吸収する最も大切な根の部分は人の心にあたると思うのです。


 日々の生活において心が何を感じるかによって、その一日が大きく変わります。晴れ晴れとした気持ちでいれば何事も明るく楽しくなります。暗い気持ちでいれば何事もつまらなくなります。楽しいことがあるから楽しい気持ちになる。嫌なことがあったから暗い気持ちになると考えるのですが、実際はその逆なのです。心の状態によって、日々の生活から吸収するものがまったく違ったものになるのです。


 能力や性格というものは磨くことはできても変えることはできません。いわば授かったものなのです。日々の言動は良くも悪くも習慣が固定化したものです。家庭環境や容姿もリセットすることはできません。現代の日本人は自由を享受しているかのようですが、肝心の自分という存在や日々の生活はガチガチに固まってしまっているのかもしれません。もっと自由に生きていくためには心を元気にしなければなりません。心は縛られるものがなく自由であり、新しく良いものを取り入れていくことで、日々の生活を活性化していくことができるのです。

 

AIの功罪

 AIを使わない日はないという友人もいます。世界中がAIを礼賛しています。計算機が登場したことによって人間の計算能力が低下しました。翻訳機が進化していくことで外国語を話す努力と能力が失われるかもしれません。では、AIは人間から何を奪うのでしょうか。人手不足をAIが救うといわれますが、実際はAIによって職を失う人が増加します。若者を中心にAIに依存し相談することで人間関係が失われます。何よりAIによって人間の考える能力が失われるのではないかと危惧しています。


 AIによって利益を得るのは極々限られた人間だけであり、ほとんどの人間はAIによって奪われる側になるのかもしれません。社会の流れというものは一部の人間が作り出すものです。志があり社会や人類のために新たなるものを創出する人間もいれば、自らの欲のために新たなる流行を作り出す人間もいます。恐ろしいのは検証がなされないまま世界中に広がってしまうことです。学校教育に取り入れられたタブレットは普及してから、その問題が取りあげられるようになりましたが、日本ではいまだにタブレットを使っています。


 普及させようとする人間はメリットばかりを強調し、デメリットに言及することはありません。医薬品のように生死に関わるものであれば厳しい基準がありますが、たとえばスマホのように生死に関わることはなくても、長い期間をかけて人生に見えざる大きな影響を与えるようなものには規制がありません。AIの進化が人類の財産となるのか、それとも人類を滅ぼしてしまうのか。今この段階でこそ議論されることが望まれます。

 

私の見方

 様々な解釈ができる絵画も自分のなかで答えが決まってしまうと、そのようにしか見えなくなります。人間の見方というものは固定してしまうと、違った視点から見ることができなくなってしまうのです。ですが、真実はいつも一つとは限りません。人の数だけ見方があり、その人なりの真実があるものです。本当に自分の見方が正しいのか。立場が違うだけではないのか。意地を張っているだけではないのか。自分の見方を守ることよりも、相手との合意点を見出してこそ信頼関係を築くことができるのです。人生において正しい答えがあるわけではなく、お互いが納得できる答えを作り出すことこそ大切なのです。

なぜに苦しみの道を歩むのか

 言葉は一度発してしまえば取り消すことはできません。いかに誤魔化そうとしても、必死に謝っても、なかったことにはできないのです。特に悪口には気をつけなければなりません。たとえ本人の前では言っていなくても、いつの間にか本人に伝わるものなのです。「誰にも言わないで」と前置きしてから話す人がいますが、その無意味さは誰もが知るところのものです。


 どうして悪口を言ってしまうかといえば、人間の心は特定の思いが風船のように膨らんでくると、爆発しないようにその思いを言葉として外に出してしまうのです。それが悪口であったり愚痴であったりするのです。ところが、外に出してしまえば、それが原因となって悶着が起こってしまいます。内に溜めても外に出しても苦しいのがマイナスの感情というものです。


 同じ相手から同じ言葉や態度を受けても感じ方はそれぞれです。どうしても許せないという人もいれば、なんとも思っていない人もいます。許せないという人は正義感の強い人、被害者意識の強い人、ストレスの溜まっている人、良くも悪くも何かしらの思いの強い人なのかもしれません。上手に流せる人は相手に囚われることなく、自分の心に怒りの風船を膨らませることがありません。あえて苦しみの道を歩むことがないよう、不要なものは心に取り込まないようにしたいものです。

 

許してこそ、救われる

 人間の感情のなかで最も強烈で私達を苦しめるものは怒りの感情です。ひとたび火がついてしまうと10年以上も燃え続けることもあります。では、その火を消すことができるのは誰かといえば自分しかいないのです。相手が悪いと思っていてもイライラしているのは自分なのです。たとえ相手が謝ってきたとしても、それを許すことができるかどうかは自分にかかっています。相手を許すことで救われるのは、相手よりも自分なのです。イライラして夜も眠れなかったのが、心おだやかに過ごせるようになります。


 私達の怒りを増長させるものは相手が一方的に悪く自分は被害者だという意識です。このように思えば思うほど怒りの炎は燃え盛ります。ですが、相手にも事情があったのではないか、自分にも非があったのではないか、冷静に考えようとすることで、たとえ相手の行為や態度が変わらなくても、自分のなかで燃え盛る怒りの炎を消すことができれば、心が落ち着くのです。長く一緒にいる人ほど、親しい人ほど、様々な感情が生まれてくるものです。まったく興味のない人間には感情も生まれません。大切だと思っているからこその感情であり、そのことを意識して関係を育んでいきたいものです。

 

 

気持ちも新たに

 まもなく新年度を迎えます。進学、就職、転勤、退職など環境が大きく変わる人もいることでしょう。また、自分が動かなくても、周囲に新しい人間が入ってくるかもしれません。いずれにしても気持ちを新たに臨みたいものです。私などは長年まったく環境が変わらない生活をしているため、気持ちを新たにすることが難しいものです。モチベーションを維持できなければ停滞を招いてしまいます。


 モチベーションが低下すると、今まであたりまえにしていたことが面倒になってしまいます。さらに心から生まれてくる様々な言い訳に負けてしまうと、できなくなってしまいます。今までできなかったことができるようになるのが成長です。逆に今までできていたことができなくなってしまうのが衰退なのです。これは年齢や健康の問題ではなく気持ちの問題なのです。


 いつも新鮮な気持ちでいることができれば成長を続けることができます。気持ちを新たに臨むならば仕事は充実したものになり、出会いは楽しいものになり、人生は豊かになります。モチベーションは自分で管理するものだと思うのです。体調の管理、恐れることなく新しいものに挑戦する勇気、言い訳に負けない意思、自らの総合力が問われるのかもしれません。いつも新鮮な気持ちで毎日を過ごしたいものです。

 

恐ろしきかな憎悪

 アメリカが第二次世界大戦以降はじめて魚雷によって相手国の戦艦を沈めたという報道がありました。戦後80年近く経っても国家や人間の本質的な部分は変わっていないようです。民主主義が世界を主導しているといっても、戦争は瞬く間に崩壊させてしまうのかもしれません。仏教では人間を苦しめる三毒というものを説いています。貪(むさぼり)瞋(怒り)痴(愚かさ)です。このうち最も強いのが怒りだと思うのです。平穏な人生も一時の怒りによって大きく狂ってしまうことがあります。怒りの制御は人生において最も大事なことなのです。怒りを抑え平常心を保つことは人生経験を積みながら修養していくしかありません。年々、自分を抑えられなくなっていく人と、見事に自らをコントロールできるようになっていく人がいるものです。


 また、怒りと正義の混同にも気をつけなければなりません。社会や相手に対する怒りを正義と錯覚し、自らを正当化してしまうことがあります。自分の怒りからではなく、社会や周囲の人々のため使命感をもって行動する大義を掲げてしまいます。ですが、勝手な理屈によって自らの感情をすり替えたとしても何も変わるものではなく、制御できないだけにかえって道を誤ってしまう危険が高まります。心に渦巻く力の根源がどのような性質のものなのか。自らを毒することがないよう心を静めて観察しなければなりません。