衰える精神機能

 年齢と共に私の思考が道理や現実から遠ざかり漂流しているように思うことがあります。自分勝手な都合やワガママに違和感がなくなり、それを相手に突き付けているのではないかと不安になるのです。周囲から見れば単なるワガママでも、自分のなかではワガママという事実が除外され真実となり、その真実に賛同してくれない周囲を敵視しているのかもしれません。私も理解できないような要求を受けることがありますが、その人にとってはその要求は正しいものであり、正当な要求を受け入れない相手が悪いということになります。


 日々、自らの思考や行動について考え反省していないと、いつしかとんでもない思考や行動に陥り、しかもそのことに気づけないということがあるかもしれません。社会で起きる凄惨な事件の多くはこのパターンの最果てなのかもしれません。ある一定の年齢を超えると途端に迷惑行為を発症する人がいますが、道理に照らして考える良識と感情のコントロールが衰えてしまうのです。肉体的な機能はどうしても低下していきますが、精神的な機能は維持しさらには向上させることもできます。年々、品格が高まり尊敬を集める人もいますが、年齢を言い訳に迷惑行為に陥ることなく、いつまでも道理を尊重していきたいものです。

 

 

 

暑さの先に学ぶこと

 暑い日が続いています。この暑さに対して「嫌だ、嫌だ」、「何とか逃げたい」、「我慢、我慢」と思えば思うほどかえって暑くなるように思います。何事も意識すればするほど、余計にダメになるものです。嫌いだと思うほど苦手意識が募り、失敗できないと思うほど緊張し、我慢しようと思うほどストレスが溜まるのではないでしょうか。いわば自分で自分の首を絞めているようなものです。


 「なるようにしかならない」という心境も必要なのです。これはあきらめるということでも油断するということでもなく、囚われないということです。無理することなく意識しなければ、もっと自然体でリラックスできます。夏だから暑くてあたりまえと思えれば、それまでよりも暑さが気にならなくなります。気持ちだけでも体感温度が変わりますし、気持ちが変わると体も暑さに適応するようになります。これは何事にも通ずることです。


 人生には避けて通れないことがたくさんあります。仏教には四苦八苦という言葉があります。生まれること、老いること、病気になること、死んでしまうこと、欲しいものが得られないこと、愛する人と別れること、嫌いな人とも顔を合わせること、自らの欲望に翻弄されること、これらは人として生きているうちは避けられないものです。嫌だけれども避けられないものと、どのように向き合うかが問われます。どれだけ腹をくくれるのか、いつも活路は思い切って飛び込んだ先にあるものです。
 

 

日本人ではなくなる日

 間もなくお盆を迎えますが、お盆はご先祖様が帰ってくる時期とされています。ご先祖様を迎える準備をして、お墓に迎えに行き、ゆっくりくつろいでもらってから帰っていただきます。はたして現代日本人の何割が本当にご先祖様が帰ってくると信じているのでしょうか。良識ある人々はご先祖様を供養する時期、もしくはご先祖様に想いをはせ感謝する時期と考えているかもしれません。そうでなければ会社や学校が休みとなり田舎に帰る時期と思われているだけかもしれません。


 昔は本当にご先祖様が帰ってくると考えられていました。これを迷信と蔑むのは間違いです。昔の人々は来世を信じることができたのです。自分の命が今生で終わることなく続いていくと信じることができました。これはとても幸せなことであり、人間にとって最大の恐怖である死のその先に進むことができたのです。現代人は来世を信じることができないため、死への苦悩が尽きることはありません。まして長生きするほど孤独になるという我々にとって、認知症は救いとさえ考えられるのかもしれません。


 日本においてはあと10年もすれば宗教的な葬儀がなくなっていきます。すでに儀式仏教といわれて久しいのですが、その儀式すら必要とされなくなるのです。合理的判断というよりも、来世を信じられない人々にとっては面倒な葬儀など煩わしいだけなのです。豊かな精神性を誇った日本文化の根底には宗教があります。その宗教が崩壊すれば、日本という社会が異質なものに変容してしまい、私達は日本人ではなくなってしまうのかもしれません。

 

 

人の感情の生まれるところ

 よく理屈ではないと言いますが、理性と感情を併せ持つ人間ですが、いつも先にあるのは感情ではないかと思うのです。感情が自由奔放な兄であり、理性はおとなしく真面目な弟といったイメージです。自由奔放な兄を弟が上手に制御したり弁護したりしています。人間の感情は善悪混合であり、そのまま外に放出するのは危険です。理性が外に出しても問題とならないよう調整しているのです。


 自分や相手に対するマイナスの感情を自分のなかに幽閉すれば大きなストレスとなります。ですが、そのまま放出すれば自分や相手を大きく傷つけてしまいます。理性はそのバランスを取るため奔走しています。しかしあまりにも感情の起伏が大きくなり、理性が処理できなくなると心は崩壊してしまいます。今の日本には心が崩壊寸前の人が多いように感じられます。


 私達は理性に頼るばかりではなく感情の起伏をおだやかにしなければなりません。道端の石で転んだ時に、笑ってすませられる人、今日は運の悪い日だと落ち込む人、呪われているのではないかと不安になる人、イライラして八つ当たりする人など、その反応は様々です。人の感情の生まれるところにおいて、心が正しく働いていれば心に大きな負担はかかりません。理性によって物事をどのように考えるかではなく、それ以前の問題として心でどのように感じるかが大切なのです。

 

 

豊かさゆえの苦悩

 自分の気持ちが分からないとか自分が何を求めているのか分からないという人が多くなっています。それは自分のなかに強い想いがないためではないかと思うのです。仏教では欲望を否定しますが、強い想いが良くも悪くも人を動かすものです。人間の根源的な欲は食欲や睡眠欲など生命を維持するための欲です。半世紀前までは人間の基本的な欲求を満たす生活を享受できたのは一部の特権階級だけであり、一般的には生きるために生きるというものが普通の状態だったと思います。


 現代は生きていくための基本的な欲求は満たされています。人類が到達した最高の生活といえるのではないでしょうか。しかし、命の危機を感じることのない生活は満たされているようで、満たされていないのかもしれません。生命の危機を感じることなく生活できると、人間は次の段階の欲求を持たなければなりません。次の段階の欲求とはそれぞれの自己実現ということになります。自分なりの目標を実現していくことを喜びとするようになります。


 自己実現とは食べるとか眠るという本能的な欲求行動ではなく、より高い次元の意識や能力が求められます。それは達成困難でもあり、高いハードルに苦しむことにもなります。生きるために生きるのではなく、どのように生きるかが問われるようになります。まして現代はそれぞれが自由に生きることが認められ求められています。これは豊かな社会ゆえの苦悩といえるかもしれません。生き方が問われた時に、何を目標にどのように生きるのか、自分なりの答えを出していかなければなりません。

 


 

幸福へのステップ

 苦難や不幸というものはワガママな子供だと思ったほうが良いと思うのです。面倒だと嫌ってしまうと、ますます駄々をこねて暴れてしまいます。まずはどのような子であろうと自分の可愛い子供であるという態度が求められます。それは苦難や不幸であっても天よりいただいたご縁だと思うことです。次にたとえワガママであっても自分の子供を責任を持って育てようとすることです。子供から逃げることなく親としてちゃんと向き合わなければなりません。それは困難や不幸に対しても責任ある態度で向き合うということです。

 

 親として子供とちゃんと向き合うならば、子供から信頼されるようになります。信頼されるからこそ、子供は親を手本に成長するようになります。それは困難や不幸にあっても正しい生活をすることで、天や周囲から信頼されるようになるということです。そうすれば困難や不幸はその姿を変えるようになります。どのような人であっても天より与えられる種は同じだと思うのです。その種をどのように育てるかで幸福と不幸という正反対の道をたどることになります。世の中には幸せになりたいと願いながら不幸へといたる道を歩む人が多いものです。幸せを願うばかりではなく、幸せへの正しい道を見出し正しく歩まなければなりません。

 

 

 

防衛本能による錯覚

 私は温泉街を一望する高台で暮らしています。全国には3000近い温泉地がありバブルの頃はどこも同じように賑わっていました。バブル崩壊後はどこも宿泊客が半減し、さらに東北では大震災以降さらに2~3割は減少しています。数字を見れば危機的状況なのですが、人間というものはその状況に慣れてしまうものです。慣れてしまうと危機感がなくなり、改善させようとする意欲もなくなるものです。


 最初は大変だと思っていても数年もたてば、その状況が日常となり危機感や疑問を忘れてしまいます。慣れるということは、その状況に適応するという場合と正常な感覚を失ってしまう場合とがあります。進化し適応するならば問題ありませんが、自分の足元が崩れつつあることを知らずにいるのは危険なことです。後悔先に立たずとは名言であり、生活が破綻してしまってからではもう遅いのです。


 人間には防衛本能があり危機的状況にあって自分を守るために様々な形で現実を歪めてしまいます。危機的状況にありながら、その危機を感じなくてもすむようになるのです。精神的な問題であれば代償となる問題行動が起こるようにもなりますが、現実的な問題であれば破産や離婚など決定的な状況となるまで無自覚のままです。大切なことは、まず問題に気づくこと、問題解決のために学ぶこと、状況を改善させ問題を解決するというプロセスをたどらなければなりません。あたりまえの日常を疑ってみることも必要なのではないでしょうか。