初宮に思う

 初宮参りのご両親に話していることがあります。結婚はお互いに相手を選んで成立しますから、選んだ責任というものがあります。結婚してみたら相手はとんでもない人間だったとしても、相手に騙されたと憎んでも嘆いても自分にも責任があります。それに対して子供は両親を選んで生まれてくるわけではありませんから、両親の責任は重いのです。

 


 人間は子供のころから自分中心に生きていますが、親になれば自分よりも子供を優先しなければなりません。この自分よりも優先すべき存在があるということに感謝しなければならないのです。子育てとは親育てでもあります。子育てを通して親も親として成長していかなければなりません。子供に対しても、子供の親として社会に対しても胸を張れる人間にならなければなりません。

 

 親の責任とは子供を自立させること、子供に恥じない生き方をすることなのではないでしょうか。今は友達のような親子が多くなりましたが、同じレベルでの仲良しではいけないのです。親はいつも行動によって子供に手本を見せなければなりませんし、子供から尊敬されなければなりません。こういう父になりたい、こういう母になりたいと思われたうえで、親子仲良くしたいものです。

 

 

私のなかの化学変化

 案内文を作るときに、分かりやすいよう配慮したり誤解されないよう表現に注意したり細かい所まで詰めていくと1枚の文書でも大変です。ですが、何事においても細かいこと小さいことができずに大きなことはできないと思うのです。大きなことばかりを求めて小さなことを疎かにしている人で成功する人はいません。ただ全体は見えているのに細かい所が見えていない人、細かい所は見えるのに全体が見えない人がいるものです。これは性格に起因するところが大きいとは思いますが、上手にバランスを取らなければなりません。感情と理性、慎重と大胆、楽観と悲観、思考と行動など私達の性質とはふたつに分かれており、さらにはどちらかに偏ることが多いようです。偏っていることも個性といえますが、左右のタイヤサイズが大きく違う車は前に進むことはできません。


 私達は自分のバランスを整えなければなりませんが、これがなかなかに難しいものです。感情に流されやすい人と何事も理屈で考える人の中間はどのあたりでしょうか。臆病な人と何も考えず突進する人の着地点はあるのでしょうか。相反する人間が協力すると大きな力を発揮することがありますが、一人の人間のなかでも相反する性質を上手に統合することができると、新たなる力を得ることができます。今までマイナスだったもの同士でも足せばプラスになります。このようにして私達は自分を育てていかなければならないのです。知識や経験も大切ですが、自らの性質を見定め上手な化学変化を起こすことも必要なことなのです。

 

 

 

時代をつくるもの

 時代は平成から令和へと移りました。平成を振り返れば不況と災害が日本人の生活に暗い影を落としたのではないかと思います。誰もが自分のことで精一杯となり、ゆとりが失われ、人々の関係性も様変わりしたように感じられます。新たなる時代への希望と絶望が交差しているようです。


 人間には「できること」と「できないこと」があります。いつも明るく前向きな人は「できること」を大切にしています。積小為大という言葉がありますが、たとえ小さくてもできることを着実に積んでいけば道は開けます。自分の想いが形となるからこそ前向きになれるのです。


いつも否定的で無気力な人は「できないこと」に囚われています。何かを思いついても、できない理由を並べて動くことがありません。前に進むことがないため、ますます自信がなくなり、できなくなります。


能力や性格よりも、物事に対する態度が問われます。気持ちさえあれば、必要なものはあとからついてきます。南無という言葉は「できないことは、すべて仏様に任せる」という意味があります。できないことは任せきり、そしてできることに専念し、新しい時代を自分なりに創っていきたいものです。

 

 

 

信じるということ

 自分を信じられいない
 家族を信じられない
 友人を信じられない
 神仏を信じられない

 信じることができなければ不安や不信に苦しむことになります。信じられないという人は安心の条件や材料を求めている人です。しかし、そういったものを求めているうちは安定することはありません。人間は契約によって信頼関係を築いているわけではなく、目の前の人間をただ信じることしかできません。人間にはお互いに優先順位があり、自分が可愛いものです。人間関係はこのことを理解したうえでの付き合いなのです。


 100点の相手を信じるのではなく、ありのままの相手を信じることができなければなりません。裏切られることを前提にする必要はありませんが、信じるという尊い行為は相手に何かを求めるのではなく、信じるかは信じないかはあくまで自分の問題なのです。一人では生きることができない私達は相手を信じて安心して暮らすか、相手を信じることができず不安に怯えるかの二者択一です。どちらを選択するかは自分で決めなければなりません。

 

 

飢えた生活の恐ろしさ

 お笑いの世界も大変なようです。このご時世にブラック企業と非難されないのは特殊な世界だからなのか、それともメディアに対して絶大な力をもっているからなのでしょうか。日本において厳しい世界が失われつつあることは問題だと思っていますが、厳しさには本人のための厳しさと、誰かが甘い汁を吸うための厳しさがあるように思います。


 アダムとイブは蛇にそそのかされ禁断のリンゴを食べ楽園を追放されました。もし、2人が満腹の状態であったならばリンゴを食べていなかったかもしれません。今回の騒動も納得できる報酬をもらっていれば闇の世界に魅了される芸人は少なかったかもしれません。3日間なにも食べずにいれば、たとえ毒が入っていても目の前にご馳走を並べられれば飛びついてしまうものです。


 何事においても飢えというものは恐ろしいものです。友達がおらず友情に飢えていると悪い友達にそそのかされやすくなります。お金に飢えていると詐欺に騙されやすくなります。愛情に飢えていると過ちを犯しやすくなります。人生には我々を転落させる落とし穴が各所にあります。飢えた生活をしていると落ちてしまうリスクが高まるのです。少欲知足で満たされた生活を心がけることで、リスクのない安定した生活を送ることができるのです。

 

 

あと一歩なのに

 「もうあと一歩」の難しさを感じることがあります。何事も花開くまでは時間がかかり努力と忍耐を求められるものです。人は誰しも「もう少し頑張ってみよう」と「もうダメ」を往復しては苦悩するものです。揺れ動く心を冷静に保ちながら、ひとつの決断を下さなければならない時が訪れます。もうあと少しの人が断念することもあれば、逆に夢を追いかけている自分に安住し現実逃避している人もいます。その見極めは難しいものです。


 人生における重要な判断ほど正しい答えがありません。自分が下した決断を後悔しないようにするためには、「このままでは」とか「もしかしたら」というマイナス思考に支配されることなく自信を持たなければなりません。そのためには自分が選んだ道をたとえ厳しくとも明るく誠実に歩んでいかなければなりません。歩みをとめることがないように、道に迷うことがないように明るく照らしたいものです。


 何事にも正しい答えや道があるわけではなく、自らが選んだものをそのように導いていかなければなりません。成功する人はどのような道であっても成功し、失敗する人はどのよう道であっても失敗します。厳しく自己責任を問われるわけですが、恐れることなく日々最善を尽くしていくしかありません。無理することなく程々でも自分に嘘をつかなければ、それなりの道になるのではないかと思うのです。答えはあとからついてくるものです。自分の決断で地球が滅亡するわけでもありませんから、まずは楽しく前に進みたいものです。

 

 

エネルギーの方向性を考える

 人間が一日に使用できる精神的なエネルギー量は決まっています。このエネルギーはプラスとマイナスにの双方向に使用されます。プラスへのエネルギーは喜びや感謝などに使用されますが、ほとんど消耗することはなくかえってエネルギーが増えることもあります。マイナスへのエネルギーは憎悪、猜疑、嫉妬、無気力などで激しくエネルギーを消費し私達を疲れさせます。


 エネルギーをプラス方向に流すことを心がけ、マイナス方向への使用を控えることで心身を健全に保つことができます。精神的エネルギーの使用も習慣です。意識しなければ毎日同じようなことにエネルギーを注ぎ、これがマイナスであれば疲れ果ててしまいます。毎日疲れているという人は日々費やしているエネルギーの方向を考えてみなければなりません。精神的なエネルギーは体力とは違い寝れば回復するというものではなく、一度枯れてしまえば簡単には回復しないものです。


 毎日同じ人にイライラしたり、毎日同じようなパターンで憂鬱になるのであれば、マイナスの習慣を改善しなければなりません。精神的なエネルギーを浪費することなく、豊かな人生のために活用しなければなりません。毎日イライラしたり憂鬱な生活を豊かだとはいいません。毎日同じことを繰り返すのではなく、昨日よりも今日、今日よりも明日と自分の生活を反省し試行錯誤しながら少しずつでも豊かにしていきたいものです。