人間の性質というもの

 賢い人ほど自分という人間を理解しているものです。たとえばお酒に弱いと知っていれば節度をもってお酒を楽しむことができます。ところが、自分はお酒に弱いと知らい人は酩酊して人に迷惑をかけたりアルコールに依存してしまいます。この場合の知るとは酔うと人に迷惑をかけてしまうこと、自分を抑えることができなくなること、アルコールによって人生が破たんしてしまうことを理解するということです。


 人間には生まれ持った性質というものがあります。どのよう人であれ善き性質と悪しき性質の両方を抱えているものです。自分を理解している人は善き性質を前面に出し、周囲から信頼され、その善き性質によって幸せな生活を送ります。極楽と地獄のどちらを選びますかと問われれば、極楽と地獄がどのようなものか理解していれば極楽を選びます。自分がどのような性質を持っているのかを理解できれば、善きほうを選ぶことができるのです。


 人によっては私はまったく善き性質を持ち合わせていないと嘆く人がいますが、それは間違いです。どのような人であれ善き性質を持っているのです。ただ気づいていないだけなのです。人間の性質とはコインの裏表のようなものです。裏があれば必ず表があり、悪があれば必ず善もあります。自分が生来もっている善きものに気づいてあげなければなりません。どこか遠い世界の手の届かいないものを求めるのではなく、自分のなかにあるものに気づくだけで私達は幸せになれるのです。

 


 

翻弄されない人々

 人間というものは習慣として同じ行動を繰り返す性質があり、新しいことに挑戦するのは面倒なことです。特にその思考や行動によって過去に大きな成功を得た、自分は間違っていないという強い想いがある、長年このやり方で問題なかったという場合には、それらを否定して変わるということは簡単ではありません。ところが、時代も社会も大きく変わっていきます。江戸時代ならぬ現代社会で暮らす私達はめまぐるしい変化のなかで暮らしています。


 時代によって求められる価値観や行動は違うものです。私達は時代を選ぶことができませんから、今生きている時代に適応しなければなりません。今の時代を嘆いていも何も変わらず、進化論ではありませんが上手に適応していかなければならないのです。年を重ねるほど時代への適応が難しくなり脱落者が出てきます。しかし、その反対に時代の変化になどまったく無頓着なのに、上手に生きている人もいます。


 そういう人は変化する時代の波には乗らず、変わらない真理のなかで暮らしている人です。変化する時代の波とは物質的な社会です。変わらい真理とは精神的な世界です。精神世界においては江戸時代も現代も一緒なのです。「いただきます」という感謝のなかで食べられることを喜ぶこと、「ありがとう」という感謝のなかで人からの親切を喜ぶことに、江戸時代と現代の違いはありません。人として大切なことに時代の干渉はありません。物質社会で暮らしているうちは翻弄されるばかりで安寧はありません。生きていくために本当に大切なことは何かと問いかけることで、変化のないおだやかな世界で暮らしていくことができるのです。

 

 

必要な情報とは

 ロールプレイングゲームでは町を歩き情報を集めます。些細な会話が重要な手掛かりとなりクリアにつながることもあります。リアルの世界においても、たとえば旅行では地元の人との会話から隠れた名所や名物に出会えることもあります。ネット検索も有効ではありますが、会話によって得られる生の情報も大切にしなければなりません。人生を大いなる旅路と考えるならば、日々の出会いは貴重な情報源となります。


 会社や地域においても情報に疎い人がいます。みんなが知っているのに本人だけは知らないし気づかないというタイプの人です。それは周囲との会話に無頓着なのです。自分が属している所でどういうことが起きているのかを把握しておかなければなりません。様々な情報を得ることで難しい人間関係や案件を上手にクリアすることができます。逆に情報に過敏だったり勝手な噂を流す人には大切な情報は集まってきません。情報が集まる人は信頼されている人なのです。


 情報に2種類あり、ひとつは自分が集めて得た情報です。食事・旅行・趣味・健康など今の自分が必要として収集したものです。もうひとつは求めていたわけではないのに、勝手にやってきた情報です。こういった情報にこそ価値があるのです。人生を大きく転換させるアイディアやチャンスというものは探して見つかるものではなく偶然出会うものなのです。現代は情報が氾濫していますが、そのほとんどは不要な情報です。大切な情報ほどこっそりやってくるものです。意識を高め大切な情報をきちんとキャッチしたいものです。

 

 

愚かな人間も賢い人間も孤独です

 たいしたことではないと思っていたことが大事になることがあります。こういった場合の謝罪会見では「認識が甘く」とか「こんなことになるとは」といった発言になります。いわば本人と周囲や社会との認識が大きくズレていたということです。思考や認識には個人差があり隔たりがあるものです。自分がズレているのか、それとも周囲や世論がズレているのかも判断しなければなりません。


 自分のほうが間違っていることもあれば、周囲や世論が間違っており自分のほうが正しいということもあります。よくよく考えてみて自分が間違っていれば素直に反省し、自分が間違っていないと思えば勇気を持って進まなければなりません。革命や革新というものは理解されない反対のなかから芽生えてくるものです。もしかしたら愚かな人間も賢い人間も周囲から理解されない孤独の道を歩むということでは共通しているのかもしれません。まさに紙一重です。


 私などは周囲との面倒事にはうんざりすので、自分は自分、他人は他人という前提に甘えることなく波風立てることなく過ごしています。ただ「ここぞ」という時には温厚な自分を捨て去り、孤高の道を歩む覚悟もあるのですが、そのようなタイミングはなかなか来ないものです。これからも進むべき道を誤ることなく、それでいて平時はのんびりおだやかに暮らしていきたいものです。

 

 

自分らしさとは

 飢えを知らない人間は本当の意味での満足を知らないのかもしれません。不幸や苦労を知らないと幸福を感じることはできないのかもしれません。昭和50年以降に生まれた人々は可もなく不可もない時代を生きており、いわば極端を知らない世代なのかもしれません。戦争や飢饉もなく生活が安定していることはありがたいことなのですが、戦争や飢饉のない生活があたりまえになれば、そこから新たなる苦悩が生まれるものです。


 安定している日本社会で暮らしている私達は意識して様々な経験をしなければならないと思うのです。その経験のなかから比較材料や判断材料を得なければなりません。これは他人と比較して一喜一憂することではなく、積極的に様々な経験をすることで今の自分を理解する手がかりを得るということです。自分よりも優れた人間を求めることで、今の自分の未熟さが分かります。子供食堂に行ってみることで、ボンティアをしてみることで、海外に行ってみることで、様々な経験によって自分という人間を理解できるようになると思うのです。


 自分を理解できなければ、自分が何を求めているのか、自分は何をしたいのか、そもそも何のために生きているのかが分かりません。与えられた役割や勤めを果たすことはできても、自分のために生きることができません。自分のために生きるという人生の大前提が崩れてしまうと生きる喜びを享受できません。人間は様々な経験を通じて成長するとともに自分という人間を理解していかなければなりません。その先に自分らしい人生があるのではないでしょうか。

 

 

自由ということ

 人生の自由度について考えてみました。たとえば食事や旅行は自分でメニューや行き先を決めることができます。学校や会社は希望に見合うだけの努力をすれば入ることができます。しかし、学校や会社を選べても配属先や上司を選ぶことはできません。誰も病気になりたい人はいませんが、日々の節制や運動に勤しむことで避けられる病気もありますが、多くの病気はある日突然やってくるものです。結婚も自分の意志だけでは決めることができません。


 考えてみると人間というものは不自由な存在だといえます。大人になれば自由を保障されますが、その自由とは不自由のなかのほんの一部分の自由なのかもしれません。私達は思うようにならないなかで日々生活しているようなものです。たとえるならば冷蔵庫のなかにある食材だけで調理をさせられているようなものです。自分に与えられた食材を見て、何も作れないとあきらめる人がいます。また、高級食材を与えられたのに傲慢となり、せっかくの高級食材を腐らせてしまう人もいます。


 与えられたものに不満を持つことなく創意工夫で自分だけの料理を作ればよいのです。大切なことは料理を楽しもうとすることであり、楽しもうとする気持ちがあれば料理はいつの間にか上達し、どのような食材であっても最高の料理となります。人生を不自由だと思う人は心が不自由なのです。どのような規則や束縛があっても自分の心が自由であるならば、何物にも囚われることなく自由に生きることができるのではないでしょうか。

 


 

ケンカに見える相手の本性

 戦争をする人に悪い人はいません。お互いに自分の正義と愛する人を守るために戦争をするのです。これは世界の古今東西すべての戦争に合致することではないかと思うのです。同じように悪いことをする人も自分が悪いと思ってしているのではなく、自分を正当化しているのです。ほとんどの人々は善悪の区別をつけることができます。しかし、そのうえで自分がおこなうことについては正当化してしまうから、この世界から犯罪やイジメはなくならないのです。


 自分は間違っていない悪いの相手でありこの社会であるという想いが、自分を正当化し悪いと分かっていることでも実行可能にしてしまうのです。周囲から見れば、想っていること、言っていること、やっていること、すべて矛盾していますが、人間というものは自分のことになると、その矛盾に気づけないものです。ケンカをしてもお互いに意地を張っているうちは解決することはありません。しかし、どちらかが素直に謝ればたちどころに解決します。 


 社会ではいつまでも意地を張る人間を評価せず、素直に謝れる人間を評価します。それは自分は正しいという想いに囚われず、ちゃんと自らのおこないを検証し反省することができるからです。喧嘩両成敗といいますが、お互いに非がなければケンカは成立しません。自らの正当性を主張するよりも、自らの非を認められる人間のほうが格段に優れているのです。自らの主張に終始する人はどこにいっても争いと孤独に苦しみ、自ら反省できる人はどこいっても尊敬されるものです。