選択に迷ったならば

 よく選択に迷う人がいますが、私はどちらの選択肢を取ってもたいして変わらないと考えています。ある人が選べばどちらを取っても安楽であり、またある人が選べばどちらも苦難の道となります。目の前に提示される選択肢が一方は幸福への道であり、もう一方は不幸への道だと思い迷いがちですが、その選択肢に大差はなくどちらの道を進んでも幸せになる人は幸せになり、不幸になる人は不幸になるのです。


 大切なことはどちらを選ぶかではなく、選んだ道で最善を尽くすことなのです。寺院関係の後輩にアドバイスをした時に、素晴らしいアイディアは盗めばいい、でもそのアイディアを実現させるための能力や人脈がなければ意味がない、まずは力をつけなさいと伝えたことがありました。何事においても問われるのは選択肢でもアイディアでもなく、自らの熱意や努力なのです。


 誰もが求める楽な道というものは存在しません。長い人生を考えれば刹那的な幸運というものがあり、そういうものを求める人が多いものですが、自分を支えてくれるものを身につけなければ、長期的な安定や飛躍はありません。使えばなくなってしまう財布の現金よりも、つねに社会から求められる能力や人間性を養うことのほうが賢明であると思うのです。

 


 

個性の時代の真実

 地元のラジオに出演することになり1回目にある絵本を読もうとしたら上手に読めないことに気づきました。やはり自分の言葉でないと上手に話せません。文章を暗記するときも、自分の文章だと頭に入りやすいのですが、誰かの言葉だと一言一句を間違いなく暗記するのは難しいものです。日々の生活においても自分の考えを自分の言葉で話すことが大切だと考えます。


 人の話を聞いていると借り物の考えや言葉だと感じることがあります。偉人の教えを学ぶことや名作を読むことは大切なことですが、それを自分なりに消化しないで、単なる知識として発信してしまうと、その人には馴染まない違和感を感じてしまいます。素人が名刀を持っても宝の持ち腐れになってしまいます。名刀を持つにふさわしい技量が求められます。同じようにどんなに素晴らしい哲学や名言も言葉だけで実践が伴わなければ虚しいものです。


 何事においても自分のものにするという作業が必要です。現代は自分という存在を見失いやすい時代です。大量の情報に日々さらされるため本当に自分が思っていることなのか、それとも社会や周囲に流されているだけなのか分からなくなることがあります。今以上にしっかりと自分という存在を正しく認識できないと、自分が何を考えているのか、自分が何を求めているのか、自分がどこに行きたいのか、ますます分からなくなってしまいます。個性の時代といわれながら、その真実は個性どころか自分という存在が失われつつあるのです。自分の考えや行動をしっかりと確立していきたいものです。

 

 

ご朱印帳あれこれ

 ご朱印ブームのなか普段ご朱印を書いていて思うことをまとめてみました。参拝者も社寺仏閣もお互い相手に配慮して良き参拝の証となるようにしたいものです。

書きづらい朱印帳
1、ちゃんと開かない(手を離すと綴じてしまう)
2、いつまでも墨が乾かない(紙質)
3、カバーにボタンがあり平らにならない(朱印が上手に押せない)
4、小さかったり、長方形すぎて幅がない(狭くて書きづらい)
5、朱印帳にパンフレットなど色々なものを挟んでいる

 

その他
1、正式には参拝してからご朱印をもらうものですが、便宜的にご朱印を依頼してから参拝いただくと、参拝中に書けるのでお待たせすることなく丁寧に書くことができます。

2、朱肉や墨は乾くまで時間がかかるので、半紙などを挟んでおくと、書いた面の反対側に朱肉や墨がつく心配がありません。慣れている人は朱印帳サイズに切った電話帳を切って挟んでいます。

3、観光名所のスタンプが押されていることもありますが、ご朱印とは別にしたほうが良いと思います。

4、キャラクターのスタンプや印刷があるご朱印もありますが、本義からは逸脱していると思います。

5、ご朱印を評価する人もいますが、評価するものではなく参拝の証です。本来は写経を納めた証でした。そのため京都などでは納経といいます。

6、寺院と神社の朱印帳を分けている人もいますが、私は一緒でも良いと思っています。明治までは神仏一体で信仰されていました。

矛盾する労働改革

 国からは働き方改革であまり働くなといわれ、定年延長で健康寿命ギリギリまで働けといわれ、会社からは兼業しろといわれ、どのように働いたらいいのか分からなくなります。日本人の労働観というものが崩壊しているように危惧されます。この崩壊の原因は国や会社の都合を押しつけようとするところにあります。そもそも各人が働きたいように働けばよいのに、それを画一化したり規制しようとするからおかしくなるのです。


 現在の日本人には労働観というものがなくなっています。まず教育の現場で働くことの意義について学び議論させることが大切です。今のようなエスカレーター式に授業を消化したら社会に放り出す教育では良い仕事は生まれません。日本が貧しかった時代は仕事の意義など考えなくても、食べるために誰もが一生懸命に働きました。ところが、今は働くためのモチベーションを維持するのも難しい時代なのかもしれません。そもそも働かなくても両親と同居していれば暮らしていくことができます。


 豊かな時代になったからこその働くことへの苦悩や働かない苦悩があるように思います。自分の生活のためだけではなく社会のために人に喜ばれるために仕事をするという理想はありますが、そういった充実感を得るためには、それに相応しい労働観を持たなければなりません。そもそも何のために働くのかということを、自分なりに考え納得できないと、これからの時代は苦悩を抱えて働かなければならなくなります。この矛盾に満ちた日本社会で自分なりの筋を通して働きたいものです。

 


 

完結した人間

 社会生活の理想は1人の人間として自立した、さらには人間として完結した者同士が共存共栄していくことです。人間は何もできない状態で生まれ両親はじめ様々な人々の恩恵によって成長し大人になります。大人とは20年以上生きているということではなく、自覚と責任を持ち経済的にも精神的にも自立しているというのが本義ではないかと思うのです。


 ところが現状は依存社会といえるような状態なのかもしれません。いつまでも親に頼り、いつまでも子離れできず、世話してもらわないと何もできず、指示がないと働くことができず、ネットがないと楽しめず、飲酒やギャンブルがないとストレスを解消できない、と様々なものに依存しているのかもしれません。


 自分のことはしっかり自分でできるというのが社会生活の基本です。この基本が大人の条件といえるのかもしれません。そのうえでの人間関係であり社会生活なのです。大人になり切れない大人が増えれば社会は停滞し不快なものとなります。現実の社会においては、お互いに支え合い助け合って暮らしていくわけですが、頼るばかりではなく1人の人間として完結を目指したいものです。

 

 

 

ルール無視の人々

 置賜三十三観音ご開帳もようやく1ヵ月が過ぎました。この1ヵ月間様々な巡礼者がお越しになりました。はじまる前から受入のルールを決めて広く周知してきたのですが、知っているはずなのにルールを無視しようとする人々が一定数いるものです。何事もルールというものは混乱しないよう不平等にならないように決めるものです。みんなが守ることでお互いに気持ちよく対することができます。


 ところがルールは破るためにあるという人間もいます。ルールを守ることと自分の想いを満たすことを天秤にかけた時に自分の想いが勝ってしまえばルールを破ることになります。ルールを破るために様々な解釈、事情、強情、言い訳などが登場します。冷静に考えれば馬鹿げていることでも、ルールを破るために必死になります。いったん一線を越えてしまえば簡単には戻れず、底なし沼に溺れるようなものです。


 ほとんどの人間は道理というものを分かっています。分かっているうえで、どうしても自分の衝動を抑えられなくなるのです。事件を起こした人間の多くは、どうして自分がこんなことをしてしまったのかと驚愕と後悔に苦しみます。社会生活には様々なルールがあり、それを破ることは逮捕されないとしても、誰かに迷惑がかかりいずれ自分のところに返ってくるものです。法律的な罪には利息はつきませんが、人間的な罪にはまわりまわって利息がついてきますので余計に気をつけなければなりません。

 

 

 

パズルの完成

 自分のペースでしか生きられない人が増えているように感じられます。それによって引きこもりや適応障害につながっているように思うのです。たとえば2人の人間がいて、目の前にひとつのリンゴがあれば、半分に分けて食べるのが普通ではないかと思います。お腹がすいているからと相手のことを考えず1人で食べてしまえば常識がないと非難されます。2人の人間がいれば2等分、3人の人間がいれば3等分というのがルールではないかと思います。


 普通の感覚があればなんとなくこういうことは分かるものです。この「普通の感覚」とは日常生活において自分のことばかりを考えず相手にも配慮できる感覚と表現できますし、人間関係において守らなければならない暗黙のルールともいえます。この日本人が持つ感覚によって聖徳太子の時代から和を尊び協調してきました。


 ところが、家庭の子育てにおいて他人のことはいいから、まず自分のことを考えなさいと教える親もいます。集団生活においては相手に配慮すること、順番を守ること、足りなければ分かち合うこと、自分より小さい子供は優先することなど、人が社会で暮らしていくためのルールを知らなければ、社会に適応して生活することはできません。知らないということは恐ろしいことです。自分に欠けているものがあると知らなければ補うことはできません。自分の生活に違和感を感じたならば、自分に足りないピースを探してみたいものです。