九条錫杖

 九条錫杖というお経があり、そのなかに「懈怠者精進 破戒者持戒 不信者令信 慳貪者布施 瞋恚者慈悲 愚痴者智慧 驕慢者恭敬 放逸者攝心」とあります。怠け者には精進を、破戒者には戒律を、不信心の者には信心を、欲深い者には慎みを、怒る者には慈悲を、愚かな者には智慧を、驕る者には敬意を、放逸な者は心を修めなさいという内容です。


 これらは対になっているものです。何事も光があれば影があり、一長一短あるものです。些細なことで怠け者が頑張ることもあれば、真面目な者が堕落することもあります。いわばシーソーのようなものであり、すべてにおいて可能性があり、また安住できないものであります。どのような人であれ反対の徳や悪徳を得ることもあります。あの人はダメだと可能性も含めて否定したり、あきらめてはいけません。また、あの人なら大丈夫だと盲目的に信じてもいけません。人も状況も変わるものなのです。


 諸行無常という、万物は変化するということが仏教の根本にあります。この変化を無視しようとすると人間は苦しむことになります。子はいつの間にか大人になり親のもとを離れます。人の心もいつの間にか移り変わるものです。時代の中心にいるつもりが、いつの間に乗り遅れるようになります。変化に柔軟に対応するのか、それとも変化に囚われず孤高であるのか、どのような態度であれ自分なりに変化を消化していかなければなりません。変化を親しき友として上手に付き合っていきたいものです。

 

 

必要とされなくなった仏教

 2500年前、インドに誕生したお釈迦様は、この世界は苦しみに満ちていると考え、その苦しみから解放されるために悟りを開き仏教を伝えました。当時のインドは今の日本とは比べればまさに天国と地獄ほどの違いだったと思います。仏教の説く人間の根源的な苦しみは生・老・病・死です。死は避けられないとしても、病気の痛みや苦しみは緩和されてきています。老いについても健康寿命は延び還暦・古希を迎えても元気で暮らせます。老・病があるからこそ生が苦しみになるわけですが、老・病が緩和され、いずれは消滅するかもしれません。そうなれば仏教の四大苦のうち3つがなくなることになります。


 今の日本を見ていると多くの人々が人生を楽しむために生きています。もはや仏教の説く生きることの苦しみが存在しなくなるのかもしれません。それは世界中の人々が願い続けてきた究極の世界なのかもしれません。ですが、私には今の日本がそんなに素晴らしい社会には見えません。豊かで苦しみが軽減されていく社会で暮らしながら、人々が抱える苦悩は増しているように感じられるのです。健康で長生きできる社会なのに高齢者の虐待は増えています。いかに老・病を遠ざけてもそれだけで幸福になれるわけではありません。こんなことなら早く死んでいれば良かったという思うような社会を豊かな社会とは言いません。仏教は時代と共に進化してきました。これからの時代に相応しい仏教を模索しなければなりません。

 

 

理解と協力がなければ

 何もしていない人ほど文句が多いものです。先日、ある総会において提案をさせていただいたのですが、様々な要望が寄せられました。提案内容は客観的・現実的・平等を心がけたのですが、それを受け取り寄せられた要望は利己的・非現実的なものでした。「交渉の席に着く」という表現がありますが、それはたとえ立場や価値観は違えど同じ視点に立つということではないでしょうか。全体にとってのベストは何か、お互いにとってのベストは何かという視点がなければ、良い方向に進むことはありません。


 戦争が起こるのは平和への願いよりも利害や敵意が優先されるからです。平和を最優先に話し合えば戦争が起こることはありません。お互いに目指すものが同じでなければ、何かを達成することはありません。一人で生きられない社会にあっては、良くも悪くも自分だけ違う方向を向いているとついていけなくなります。何事においてもお互いの着地点を見つけなければなりません。ずれている人ほど着地点を見つけるのが困難になります。妥協ではない納得できる着地点はお互いの信頼関係と有意義な議論によって生まれるものです。


 賢い人ほど相手を育て同じ道を歩もうとし、そのための忍耐と努力を惜しまないものです。そこまでできない私は分かりあえない人間の愚かさに苦悩してしまいます。この世界の平和も繁栄も各人の目的や願望もすべては人々の理解と協力なくして実現することはありません。その理解と協力をいかに獲得していのか。険しい道なのかもしれませんが、避けて通ることができないとすれば、覚悟を決めあきらめることなく歩んでいきたいものです。

 

 

嫌いなままでも

 嫌いな人を好きになろうとすると、かえって嫌いになることがあります。信じようとすればするほど、不信との戦いになることがあります。何事も無理をして克服しようとすると逆効果になるということがあります。「○○しなければならない」とか「○○してはいけない」と自分を縛るほど苦しくなってしまいます。私達の生活の根底には道徳があります。今の日本では道徳が崩壊していると嘆く人もいますが、それでも大多数の日本人は道徳的・良心的な生活を送っているように思います。


 「できる・できない」は別にしても、各人の心には道徳的な規範というものがあります。この規範によって社会は維持されるわけですが、正しく実践できない規範は私達を責め苦しめることもあります。たとえば学校では友達と仲良くしましょうと教えられます。ところが、30人の同級生がいれば相性というものがあり、誰とでも同じように仲良くできるわけではありません。自分とは合わないと感じる苦手な人がいた時に、仲良くしなければならないという道徳的なメッセージは、仲良くできない自分を責めます。


 本音と建前、理想と現実を上手に区別できる人は自己嫌悪を回避できますが、道徳的メッセージと正面衝突してしまうと自分を追い込んでしまいます。あなたが嫌いですと宣言したり態度で表明する必要はありませんが、嫌いだという自分を否定しなくても良いと思うのです。自分の想いを否定することなく、大人として対応するのが最善ではないかと思います。自分の心まで無理して変えようとするのではなく、行動と心の矛盾を認めてあげることで、ずいぶん楽になるのではないでしょうか。

 

 

生きるということの意味

 人はなぜ生きるのか、最もシンプルに表現するならば幸せになるために生きています。すべての人間には幸福になる権利があります。私達はお互いに幸せを求める同志が集まり社会を形成して暮らしているはずなのです。科学は人類の幸福に寄与するためにあり、国も企業も国民を幸福に導くために存在しています。この世界に存在するものすべてが人間を幸福にするためにあるわけですが、どうして世界は争うばかりで平和が実現しないのでしょうか。


 個人も国家も自分の幸福ばかりを考えていると相手の幸福を奪ってしまうのです。相手の幸福を奪って自分が幸福になれる道理はなくお互い不幸になるのです。求められることはお互いの幸福なのですが、このバランスをとるのが難しいのです。お互いに自分のことよりも相手の幸福を考えることができれば幸福になれます。ところがお互いに自分のことを優先したり、どちらかが自分を優先してしまうと、幸福は遠ざかります。


 誰もが願ってやまない幸福なのですが、その実現は簡単なようで難しいようです。ですが、難しく思うのは難しく考えるからであり、ただお互いの幸福を願うことができれば、その瞬間に幸せになれるのです。国家は幸福の実現よりも自国の権利や財政を考えてしまいます。企業も幸福への寄与よりも収益や景気を考えてしまいます。個人も幸福の追求よりも生活や将来を考えてしまいます。幸福を後回しにしているから幸福になれないのです。そもそも何のために存在しているのか、何のために生きているのかを考え、その根本に思いをはせるならば自然と答えは見つかるはずなのです。

 


 

いつも楽しみを

 いつも楽しそうな人がいます。そういう人は必ず自分なりの楽しみを持っているものです。仏教的に考えれば人生には苦難が伴うものですが、そういった苦難に負けない楽しみ、悲哀に負けない喜びを見いだせた人が人生の勝利者ではないかと思うのです。私達はいつ嵐に遭遇するかも分からい海を航海しているようなものです。そんな危険な海を筏で航海しているような人もいます。些細なことで人生に絶望することがないよう、人生に対する覚悟と自らの人生を豊かなものしようとする意欲が必要ではないかと思うのです。


 人生を楽しもうとする人にも、三つのタイプがあるように思います。ひとつ目はお金を使って自分が楽しむというタイプです。旅行や買物などお金を使い人生を謳歌しようとするタイプです。ふたつ目は時間を楽しむタイプです。物を買うのではなく、豊かな時間を求めます。求める時間はそれぞれでしょうが、家族の時間や趣味の時間など時間のなかに喜びを見出します。みっつ目は他者の喜びを自分の喜びとするタイプです。社会や人に貢献したり喜ばせようとするタイプです。また1人で静かに楽しみたいタイプとみんなでワイワイ楽しみたいタイプにも分かれます。


 せっかくの人生ですから楽しく豊かなものにしたいと誰もが願うと思います。私は「楽しい」ということにも浅深があると思っています。他者の楽しみを評価する必要はありませんが、いかに自分の楽しみや喜びを深めていくかを考えなければなりません。楽しいだけの時間は虚しくなるものです。たとえ困難が伴ってもあきらめることも飽きることもなく長く続けられるものを持ちたいと思っています。どんなことであれ好きで長く続けることで充実した時間と思い出に満ちた人生になるのではないでしょうか。

 

 

 

妄想が真実になった時

 先日、些細なことでイライラしたことがありました。結局は私の勘違いだったのですが、友人に相談して自分の勘違いだと分かるまでは大変でした。私の妄想が間違いだったと気づいてからは、どうして私がこんな妄想と呼べるほど不信と憎悪に支配されていたのか理解に苦しむほどでしたが、支配されている間は自らの妄想が真実でした。自分の心に生まれた勘違いが増幅され続ければ、いつかは事件にまで発展するかもしれないという恐怖を感じました。


 相手に対するマイナスの感情は一人で抱え込んでしまうと成長していきます。どんどん大きくなり心の中心に居座り寝ても覚めても、そのことばかりを考えるようになります。やがてはお互いにとって悲惨な結末を迎えるかもしれません。ほんの些細な勘違いでも放置してはいけません。誤解を解くには本人と話すのが最良ですが、それが難しい場合には冷静で良識ある友人に相談しなければなりません。


 人間というものは一人で考えるとろくなことになりません。何事においても対話が大切だと痛感しました。自分のなかで妄想が真実になった時には自力での脱出は難しいものです。妄想の闇から自分を救い出してくれる友人が必要です。相手の愚痴を聞くのも忍耐が求められることもありますが、お互いに愚痴を言い合える関係も必要です。その関係のなかで妄想を打破する光明を探したいものです。