仏教の心で

 ネットの情報に翻弄されたり、周囲の意見に押し切られていると、だんだと自分の意見を表明できなくなり、さらには自分の意見を持てなくなり、さらには考えることがなくなり周囲に迎合するばかりになってしまいます。2人以上の人間が集まれば意見が衝突して争いになることもあります。同じ人間はいませんから、2人の人間がいればお互いに半歩譲ることで着地点を見出すわけですが、多くの場合、どちらかが我慢しなければならなくなります。


 昼食を考えてみても蕎麦とパスタに意見が分かれれば、どちらも食べられるファミレスにするか、どちらかが譲らなければなりません。大抵は年下か優しい人が譲りますが、お互いが平等に譲るということはなく、どちらかのストレスになることが多いのかもしれません。どちらかといえば遠慮がちで譲ることが多い人は、自分の意見や願望を持たないほうが、相手に譲りやすいと考えるようになるかもしれません。


 自分の意見や願望に執着するからこそ、その想いを抑えて譲ることがストレスになります。そうであるならば最初から自分の意見や願望を持たないことが楽なのでしょうか。仏教の無という教えをそのように考える人もいます。ですが、相手との対立とそこから生まれるストレスを恐れることが無ではありません。仏教的に考えるならば、自分の意見と相手の意見があり、自分の意見が通らなかったとしても、そのストレスを我慢するのではなく、相手が望むものを一緒に食べられることを素直に喜べるのが仏教です。思うようにならないこの世界にあって、思うようにならないことさえも楽しめる「おおらかな心」が仏教の心なのではないでしょうか。

 

 

人生の重荷とは

 若い時はお金がありませんが、あまり考えずにあるだけ使っていました。貯金という意識はなく、お金のありがたみも分かりませんでした。年齢と共に家族を持ったり働くことの大変さを経験すれば、お金の重みということも理解できるようになります。お金だけではなく、たとえば命の重み、言葉の重み、責任の重みなど経験して理解していかなければならないことばかりです。


 人生の重みというものは頭で理解できることではありません。経験から学ばなければならないものですし、不平不満に埋もれていると理解できないことなのです。前向きな気持ちで経験を積んでいく先で体得できることではないかと思うのです。人によって人生の軽重はありません。ただ本人が自分の人生の重みということを理解しているかどうかなのです。それによって人生は大きく違ってきます。


 命の重みを知るからこそ、自分を大切にすることができます。言葉や責任も同じように、その重みを理解できるからこそ、言葉を大切にし責任を果たそうとするのです。豊かな人生を送っている人は、人生の重みを理解しながら、その重みにつぶされることなく、かえってその重みによって人生を深く味わいあるものにしていくのです。重荷を背負うことから逃げるのではなく、積極的に背負うことで力強く歩んでいきたいものです。

 

 

あなたの使命とは

 日本人の移住先として人気の国がテレビで紹介されていました。気候は温暖で物価は安く、地下資源が豊富で国の財政も豊かなため税金も低いそうです。日本は経済大国として治安もよく世界有数の生活レベルにありますが、その便利で快適な生活は国の借金によって成り立っています。表面的には豊かであっても、その影には大きな負債を抱え込んでいます。その負債は誰か他人のものではなく日本人全員にとっての負の遺産なのです。


 今年は暖冬で除雪も楽でしたが、それは地球温暖化の証明でもあります。私達の生活に欠かすことのできない二酸化炭素によって母なる地球は高熱に苦しんでいます。平均気温が体温を超えるようになれば、もはや人間生活は成り立たなくなります。国債も温暖化も深刻になるばかりです。しかも個人の努力ではどしようもなく、さりとて国の音頭で解決することでもなく、各人の危機意識がなければどうにもなりません。人間というものは尻に火がつかないと本気になれませんが、火がついてから解決できた経験はほとんどありません。「いつか、そのうち」は大きな後悔へと続くプロローグなのです。


 国が破綻してしまえば個人の生活もすべて破綻します。地球が消滅してしまえば国も個人もすべて消滅してしまいます。そのように考えるならば個人の生活など些細なことに思えてしまいます。今の自分の生活が成り立っているその先には社会があり地球があるわけですが、自分が活かされているそのつながりをしっかりとたどっていかないと、ありがたみを理解することはできませんし、今の自分がしなければならない使命に気づくこともできません。

 

 

人生の制限を考える

 この命というものは買ったものではなく与えられたものです。私達は誕生日も両親も選べないまま気づいたら人として生を受けていたのです。これはどのような偉人であっても同じであり、自分の名前も通う幼稚園も自分で決められるものではありません。大人になれば自らの意志と選択で生活しているように思いますが、就職も結婚も相手がいることであり、勝手に決められるものではありません。今日の昼食であっても誰かと一緒に食べるならば相談しなければなりません。


 私達は1人では生きられないという、不自由な生活を強いられています。ですが、不自由と考えるのか、いただいた命を誰かと共有して生活していると考えるかで大きく違います。大切なことは執着から離れることです。権利、金銭、時間、労力などすべて自分のものという発想で物事を考えると苦しくなります。自分のことばかりを考えていると「守る」という発想しかなくなり、「与える」とか「共有する」という発想が生まれません。そうする不自由な生活に不満が募るばかりです。


 思うようにならない人生を面倒と考え1人で生きようとる人は昔からいました。ですが、世界中のどこに行こうとも1人で生きることも、1人で幸福になることもできません。できないことにこだわるよりも、人生は思い通りにはならない、人間は1人では生きられないという事実と向き合わなければなりません。与えられた制限のなかで最善を尽くしていくことが人としての人生だと思うのです。けして完全な人間はいないなかで、弱き人間がいかに生きていくべきかを考えることが大切ではないかと思うのです。

 

 

 

虐待を解決するには

 最近の報道で知ったのですが民法に懲戒権というものがあるそうです。これは子供の教育や利益のために必要な範囲の懲戒を親に認めるという法律ですが、よく分からないというのが正直なところです。おそらくほとんどの人が知らなかったのではないでしょうか。この懲戒権を改正することで児童虐待を防止する試みがなされるようですが、その効果はいかほどなのでしょうか。おそらく懲戒権が改正されたからと虐待を慎むようになる親がいるとは思えません。


 虐待を防止するのが理想だとしても、現実的に考えればまず虐待されている子供の救出が最優先だと思うのです。今以上に親の意向を無視してでも虐待の可能性があるならば強制的に救出できる法改正が必要だと思います。さらに長い目で見るならば虐待の原因はストレスであり、今の日本を覆うストレスを改善していかなければなりません。ストレスが蔓延していれば、必ず自分のなかで消化できないストレスが弱い子供に向けられてしまいます。


 何事にも現実的な対処と長期的・理想的な対処の両方が必要です。このふたつを無視して表面的な対処をしていると事態はますます悪化してしまいます。問題が起こった時、問題の本質にどこまで迫れるのか、現実と理想の両軸からアプローチしていかなければなりません。偶然起こる問題というものはありません。問題は必然であり、必然であるからこそ解決できるものなのです。大切なことは、どのレベルで問題を解決しようとするかなのです。「とりあえずやりました」という表面的なアプローチではなく、高い意識で問題と向き合うことで、その先に大きな発展や安寧が待っているのではないでしょうか。まずはすべての子供が安心して暮らせる社会を願うばかりです。

 

 

経済の時代と心の時代

 あるお宅で、昔はどこの家にも仏間があり立派な仏壇がありましたが、近年は住宅事情のなかで仏壇はリビングの片隅に小さくひっそりと置かれるようになったという嘆きを聞きました。ですが時代の流れを嘆いても虚しくなるばかりです。例えるならば昭和の時代は形から入りました。「これだ」という形が決まっており仏壇ばかりではなく、就職は正社員、結婚は30歳まで、長男・長女は家を継ぐなど様々な形が決まっており、その固定観念によって社会が形成されていました。しかし、そういった固定観念には見栄や義務感が伴うものでした。形ばかりで中身が伴わない虚しさに苦しむこともあったのではないかと思うのです。


 平成になるとそれまで日本社会を形成していた固定観念が次々に消滅していきました。昭和の固定観念や価値観では平成という時代を支えきれず崩壊していったのです。それは人生の決まったレールを歩むという安定と虚無からの解放であり、何事も自分で決めて生きなければならないという自由と自己責任の重荷を背負うことでもありました。また、面倒なことは放棄するという無責任を助長した時代でもあったと思います。


 形は心が伴ってこそ本物になります。間もなく到来する新しい時代は昭和と平成の良い意味での統合の時代になればと期待しています。昭和と平成それぞれの時代に崩壊したものを見直さなければなりません。そして新しい時代に見合った形で再構築していかなければなりません。昭和の時代が形だとすれば、平成の時代は心なのですが、その心はまだまだ満たされていないように感じます。どうすれば心を満たしてくれる社会になるのかを考えなればなりません。経済の発展と心の充足とどちらが大切なのでしょうか。

 

 

幸・不幸の境界線

 私の住むところはスキー場が目の前にある豪雪地帯ですが、今年は雪が少なく助かっています。ところが、暖冬に慣れてくると少しの雪でも煩わしくなってしまいます。大雪の年なら1~4センチの降雪予報は喜びなのですが、暖冬の年は不満に思えてしまうのです。少しの雪で除雪するくらいなら、降らないで欲しいと思ってしまいます。同じ降雪でも状況や考え方によって大きく違ってしまうものです。


 不満は自分で作るものであり、幸福や感謝のなかにも不満の種があり、幸福や感謝を破壊して不満が爆発することもあります。幸福や感謝に飽きては不幸を呼び込むのは人間の弱さや愚かさに原因があるですが、他人事ではなく誰にでも不満の種はあり、それがいつ芽吹くかは分からないものです。暖冬の喜びに飽きると小雪に不満を感じるように、飽きてしまえば何事も不満になってしまうのです。


 人間にとって大切なことほど飽きやすいものであり忘れやすいものなのです。健康な時は健康のありがたみを忘れ、家庭円満な時はその家庭に飽きて刺激を求めてしまいます。順調な時は傲慢となり、逆境にあっては不満となり、知足という言葉を体現できないものです。人生とはすべて自分の心からはじまり、その心が言葉や行動となって社会や相手に投影され形となっていきます。人それぞれに幸・不幸を抱えていますが、そのどちらに目を向けているのかによって大きく違ってくるのではないでしょうか。