死を考えるようになったら

 年齢と共に不安や執着が強くなる人と逆に弱くなる人に分かれるようです。人間はある時期から死というものを意識するようになります。死というものを意識した時の態度によって不安や執着の強弱が変わってくるように思うのです。人は誰しも有限ということを前提に生きています。死からは逃れられないという道理に反して、いつまでも生きていたいという願いが自らの不安や執着を強め苦しめるのです。


 人間が苦しむ根源は道理に反するからなのです。いつまでも健康で長生きしたい、相手を望むようにコントロールしたい、どんなことでも完璧にこなしたいなど、できないことをしようとするところに苦しみが生まれるのです。死というものを簡単に克服できるわけではありませんが、死を前提にしながらもそれまで自分なりに豊かに暮らしたいと思うことで、不安や執着は落ち着き、さらには本当に大切なことが見えようになります。


 不安や執着に囚われて生きていると、不安を誤魔化すことや執着に溺れるばかりの生活になります。大切なことは明日どうなるかよりも、今日をどのように生きるかだと思うのです。日々の生活を大切にすることで先々への不安や不満よりも、今を生きる喜びや感謝を実感することができると思うのです。小学校や中学校のスローガンにあるような言葉ですが、子供以上に大人のほうが今という時を大切にしなければならないと思います。

 

 

バイトテロの悲劇

 最近のアルバイト店員による動画投稿による被害がバイトテロと表現されるようになりました。以前サイレントテロという言葉が登場しましたが、バイトテロは周囲にも迷惑をかけますからより深刻です。テロの被害を受けた企業が訴訟を起こす流れになっていますが当然の結末ではないかと思います。厳しい対応をしなければ頻発するようになります。加害者も被害者もお互い不幸になるばかりです。


 あるテレビのコメンテーターが底辺のストレス発散だと解説していました。適切な表現だとは思えませんが、信じられないような行動はこれからますます増加していく傾向にあると考えます。それは教育や経済の格差によって広がっていきます。学問よりも人間的な規範や道理を学ぶことなく大人になる人間が増えています。そして社会に適応できないと職を転々とするしかありません。


 現状に不満はあれどその原因や解決方法が分からないままだと、膨らみ続ける風船のように必ずどこかで爆発してしまいます。この社会はすべて自己責任であり因果応報の世界なのですが、そのことを理解しようとしないと、自分の努力で現状を改善しようとしないと、翻弄されるばかりで壊れてしまうのです。昭和の時代は社会で暮らすほとんどの人がそれなりに幸せを感じることができたのかもしれません。しかし、これからの時代は社会から無条件に幸福が与えられることはなく、自らが望む幸福に相応しい生き方を求めていかなければならないようです。

 

 

困った時の通信簿

 同業者の2人の社長さんと話す機会がありました。お1人は時流を読み瞬く間に事業を発展させてきました。域内全域で不動の位置におられます。もうお1人は着実に事業規模を広げています。例えるならばウサギとカメのような関係かもしれません。前者は誰に対しても独裁的な強さで応じ事業を発展させてきました。後者は誰に対してもおだやかに事業を展開してきました。事業規模を見れば前者が圧倒的ですが、評判ということになれば後者が圧倒的です。


 前者の事業は好調な時は伸び続けますが、問題が起こったり事業継承の時期になると途端に頓挫することがあります。独裁的な経営には絶えず圧倒的な強さが求められます。それは野生の世界のようなもので、群れを率いるボスも年齢に負け新たなる台頭者に負ければすべてを失います。後者の事業には人柄が求められます。打算ではなく人柄で経営していれば、たとえ逆境に陥ろうとも誰かが助けてきます。相手に憎しみを与えるのか、恩を与えるのか。人間は困ったときには自分が今まで与えてきたものが返ってくるようになっているのです。


 人生は長い目で見れば帳尻が合うようになっています。不平等に見えても、それは相手の心が見えないからそのように見えるだけなのです。人生を謳歌しているように見えても不幸な人はたくさんいます。華やかな芸能界でも、その光と影は恐ろしいものです。最終的にその人を幸福へと導くものは金銭や地位ではなく人柄なのだと思います。自らが社会や周囲に対して何を与えてきたのか。その通信簿を受け取るのがいつになるか分かりませんが、後悔しないよう今から心がけたいものです。

 


 

自分をメンテナンス

 山崎賢人さん主演の『羊と鋼の森』というピアノの調律師の映画がありましたが、ピアノは定期的な調律がないと美しい音は出せないそうです。ピアノに限らずメンテナンスは必要であり、私達人間にも心身のメンテナンスが欠かせないと思うのです。人間のメンテナンスといえば健康診断が真っ先に連想されます。健康維持のためには早期発見が大切です。ですが、体ばかりではなく心や日々の生活も定期的な見直しが求められています。


 ストレスは放置しておくと心の病となり学校や職場に行けなくなることもあります。早めに気づけば対処も容易ですが、無理して我慢して悪化してしまうと回復するのが大変になります。日常生活における暴飲暴食、運動不足、睡眠不足、依存症、人間関係など何事も早めに気づければ良いのですが、それが習慣化してしまうと大きな問題に直面するまで気づかないままになってしまいます。もしくは本当は気づいているのに知らないふりをしているのかもしれません。


 節目ごとに人生について考える機会が巡ってきます。その時に自らの想いとしっかりと向き合うことで、より良き人生へと進むことができます。人生の転機とは今までの人生を清算して、これから向かうべき道を見定めることです。買物にこだわる人や趣味にこだわる人など、人に様々なこだわりがありますが、やはり生き方にこだわることが大切だと思うのです。たった一度の人生を自分らしくどのように生きるのか。存分にこだわりたいものです。

 

 

迫力と尊敬と緊張と

 人に対する態度も様々であり、同じ内容を伝えるにしても態度や表現まで同じものはなく、個性ということを実感させられます。私はなるべく相手を不愉快にさせず喜んで協力してもらえるような態度を心がけています。争ってもお互いに損するばかりです。どちらかが賢明であるならば争いを避けることができます。人によっては争いの種ばかりまこうとする人もいますが、争いは本人たちばかりではなく周囲にも迷惑をかける不幸の元凶ですから、慎まなければなりません。


 ところが、同じ態度で接しても相手によって対応は異なるものです。誠実な対応をしているとお人好しだと思われることもあります。「あの人はどうせ怒らないし」とか「あの人は後回しにしても大丈夫」と思われても困ります。相手にもよりますが人間関係には緊張感も必要だと思うようになりました。お互いに緊張感を持つことで惰性に流されない良き関係を築くことができるのかもしれません。そのためには料理の隠し味のような刺激も必要なのかもしれません。


 社会ではうるさい人や面倒な人のほうが優遇されることもあります。真面目に考えればおかしいことですが、それが人情というものかもしれません。ですが、ただうるさくて面倒だからハイハイという対応をしてもらえるのです。それに甘んじているうちは人として尊敬されることはなく陰口の標的になるだけです。礼節を重んじながらも侮られることのない人間になりたいと思います。偉人と呼ばれる人々はそれぞれの迫力というものを持っているように感じます。その迫力は尊敬と緊張を相手に与えるものです。そういった雰囲気をまといたいものです。

 

 

ストレスのリレー

 ストレス社会といわれる現代生活を疲れると感じる人が多いのではないかと思います。私はその原因は心の酷使にあると思っています。不安、嫉妬、不信、憎悪などマイナスの感情が強くなるほど心は疲れてしまうのです。しかも今の日本はマイナスの感情が増幅されてしまうので余計に負担になります。自分に与えられたストレスを誰かに押しつけようとストレスのリレーが日本中でおこなわれています。上司からのストレスを部下や家族に、家族からのストレスを子供に、子供からのストレスを学校に、ストレスのバトンは増幅しながらどこまでもつながっていきます。


 社会で生きている者にとっての幸福とは、まずは社会や周囲との調和がなければ実現しません。ストレスのバトンを捨て安定した生活を確立しなければなりません。自分にストレスを与える存在から逃れるということではなく、ストレスの少なくなる関係を築かなければなりません。いつも注意されているならば「これでどうだ」という仕事をしてみせる。いつも心配なら「これだけやれば」という万全の状態を作ってみせる。変えられない相手や自分そのものを変えようとするのではなく、その関係を変えるのです。


 ストレスに最も有効なのは自信だと思っています。たとえ勘違いでも自分を信じることができると、周囲からの影響力が低下します。まわりの言動に支配されなくなるのです。安定した自分を確立できればストレス社会で生活していてもストレスを感じなくなります。自信がないと些細な注意でも自分を否定して夜も眠れなくなります。自信があれば注意されたところだけを素直に反省して完結します。日本人はもっと自分に自信を持っても良いと思うのです。些細なことを吹き飛ばす自信でストレスリレーから卒業したいものです。

 

 

その判断は危険信号

 物事を判断し選択するときに欲があると正しい判断や選択ができなくなり後悔することが多々あります。しかも自らの判断や選択が欲によって歪められていると気づけないことに大きな問題があります。それは人間というものが自らの欲を正当化してしまうからなのです。現在使われている大義名分という言葉が示すように、やましい心を正当化する作業が日常茶飯事におこなわれています。


 ダイエットすると決めたのに「今日は○○のお祝いだから特別に・・・」、新しい企画が失敗した時に「私にベストを尽くしたのに○○さんのせいで失敗した」、本当は嫌いな相手に「私は〇〇さんに好意的なのに、○○さんが私を嫌っているのでしょうがなく」など、人間は本心を隠して虚偽の事実を作っては周囲に押しつけようとするものです。それは単純な言い訳なのですが、本人が真実だと思い込めば事実になってしまうのです。


 判断や選択を迫られた時には自分の欲を排除しなれば正しい結論を見出すことはできません。完全に排除できなくても、欲を意識することで大きな過ちを避けることができます。既婚者でありながら素敵な異性と出会ってしまえば、様々な葛藤が生まれますが、今の自分の思考の根底に欲が渦巻いていると考えれば、冷静な自分を維持することができます。欲の恐ろしさを知ることで、今の自分が欲によって暴走する危険性があることを認識することで、欲を抑えることができるのです。


 仏教では仏様を蓮の花に譬えます。それは泥のなかで花を咲かせているのに泥に染まらないところが、煩悩の世界で私達と一緒にありながらも欲に染まらない仏様に通じるからです。現代社会はまさに欲界ですが、そのなかで暮らしながらも欲に翻弄されず、正しき道を歩んでいきたいものです。その正しき道こそ誰もが求める幸福へとつながる道なのです。