仏教の心で

 ネットの情報に翻弄されたり、周囲の意見に押し切られていると、だんだと自分の意見を表明できなくなり、さらには自分の意見を持てなくなり、さらには考えることがなくなり周囲に迎合するばかりになってしまいます。2人以上の人間が集まれば意見が衝突して争いになることもあります。同じ人間はいませんから、2人の人間がいればお互いに半歩譲ることで着地点を見出すわけですが、多くの場合、どちらかが我慢しなければならなくなります。


 昼食を考えてみても蕎麦とパスタに意見が分かれれば、どちらも食べられるファミレスにするか、どちらかが譲らなければなりません。大抵は年下か優しい人が譲りますが、お互いが平等に譲るということはなく、どちらかのストレスになることが多いのかもしれません。どちらかといえば遠慮がちで譲ることが多い人は、自分の意見や願望を持たないほうが、相手に譲りやすいと考えるようになるかもしれません。


 自分の意見や願望に執着するからこそ、その想いを抑えて譲ることがストレスになります。そうであるならば最初から自分の意見や願望を持たないことが楽なのでしょうか。仏教の無という教えをそのように考える人もいます。ですが、相手との対立とそこから生まれるストレスを恐れることが無ではありません。仏教的に考えるならば、自分の意見と相手の意見があり、自分の意見が通らなかったとしても、そのストレスを我慢するのではなく、相手が望むものを一緒に食べられることを素直に喜べるのが仏教です。思うようにならないこの世界にあって、思うようにならないことさえも楽しめる「おおらかな心」が仏教の心なのではないでしょうか。