幸福の木とお釈迦様

 お釈迦様の逸話は様々ありますが、そのひとつに農夫から「私は田畑を耕して食を得ているが、働かないものに食を与えることはできない」と言われます。これに対して「私は心を耕している」と答えたと伝わります。普通の者が言えば屁理屈なのでしょうが、お釈迦様の言葉には威厳や真実が含まれているからなのでしょうが、その農夫はすぐさま弟子になったそうです。


 田植えの前には土を耕しますが、それによって土が柔らかくなり様々な効果があるそうです。人の心もまず柔軟性がなくてはなりません。硬い心は新しいことを吸収する謙虚さがなく、人間関係においては相手を想う優しさに欠けトラブルの原因となり、希望に満ちた前向きな発想を阻害します。心がやわらかいと各人が持っている幸福の木が根を伸ばし養分を吸収し大きく成長していき、幸福の果実をもたらします。


 幸福の木の養分とは人を想うやさしさである慈悲やそれを実践しようとする善行などです。自らの心に栄養を与えることで、幸福の木は正しく成長していきます。時には困難に直面することもありますが、誠実に乗り越えることができれば、さらなる栄養となります。幸福とは外界からもたらされるものではなく、心に芽生え成長していくものなのです。お釈迦様のようにはいきませんが、心を耕し幸福の木を育てたいものです。

 

想いの強さ 

 「正月前ですが参拝しても良いでしょうか」とか「こんな時期ですが参拝を」と言われるとこがある師走です。せっかくお参りするなら新年を迎えてからと思う人も多いと思いますが、可能であれば師走のこの時期に今年の一年の厄を払い、また今年の感謝を申し上げる参拝をお勧めいたします。大掃除と参拝によって身も心も浄めて新たなる年を迎えたいものです。


 何事も節目は大切であり、そこに向けて想いを高めるとこも必要です。想いを高めてこそより意義ある節目を迎えることができます。正月ばかりではなく、卒業や入学もそうですし、日々の生活において目標を決めるときにも大切なことになります。また、旅行などでも準備ばかりではなく、楽しもうとする想いを高めておくことで、より充実した旅行になるのではないかと思うのです。


 すべては思いからはじまる訳ですから、その想いを浄めることや高めることで結果や感想が大きく違ってくると思うのです。モチベーションが大切であり、早い時期から想いを高めておくこと準備をしておくことで、競争であれば先んじるとこができますし、そうではなくてもより有意義なものにすることができます。とかく無気力が蔓延している現代社会だからこそ、あらためて想いということについて考えてみたいものです。

 

継続は力なり

 漫才番組を見る機会がありました。ひとつは登竜門的な若手の漫才、もうひとつはテレビでもお馴染みのベテランの漫才です。いつもテレビで見ているベテランですが、その漫才を見るのは初めてでした。若手と比べるとやはり面白かったです。毎日のようにテレビで目にする面々ですから、多忙であり漫才のネタを作ったり練習する時間も少ないように思うのですが、そこをしっかりやっていることが見て取れました。お笑い芸人にとっては漫才が原点であり基本であり、そこで手を抜かないところがプロ意識なのでしょう。


 この多忙でも売れていても原点を忘れない、基本を大切にするという意識があってはじめて人気を継続できるのでしょう。すぐに慢心してしまっては、すぐに面白くなくなり忘れられてしまいます。芸能界でなくても、原点や基本を大事にできる人が良い仕事や人間関係に恵まれるのではないでしょうか。いかに忙しくても為すべきことを為すことが求められます。向上のためには言い訳せず継続していく強さが大切です。たとえ1日10分のことでも1年間続ければ60時間になります。時間は作るものであり、その時間を何に向けるかによって人生が大きく変わってきます。才能や技能よりも時間を作りだし継続していく人のほうが勝るのではないかと思うのです。

 

令和6年甲辰年について

 令和6年は【甲辰 きのえ たつ】の年です。

 【甲】は春になって新芽を出す時期ではあるが、余寒が厳しくまだ思うように進めない状態を表しており、来年は慎重さが求められます。また、甲には「はじまり」という意味があり、新しいことへの挑戦や、今までの習慣や価値観を改めるのに適した年です。新たなる行動には抵抗や妨害もありますが、内なる力が満ちてくる年ですから、希望をもって自らの願いを形にしていきたいものです。


 【辰】は「ふるう、ととのう」という意味があります。陽気が活発となり万物が振動しよく整うとされます。今までの努力や忍耐が形となって報われる年ですが、良いことも悪いことも勢いがつく年のため、善悪の判断は厳しくおこない自制が求められます。世の中も大きく動きやすい年ですが、翻弄されないよう着実に歩んでいきたいものです。


 環境や社会の変化は大きくなるばかりです。変化への適応も必要ですが、変わることのない本質的なものを見極めることも大切です。改めるべきは改め、守るべきは守り、新たなる道を開いていきたいものです。いよいよ師走となり今年も残り1ヶ月となりました。大掃除と共に参拝などによって今年一年の厄を払い身も心も浄め、また新年に向けた新たなる誓いを考えてみたいものです。

 

底なし沼に注意

 たとえば友人を食事に誘った時に「明日は忙しいのでゴメンなさい。」と言われたとします。普通であれば「急な誘いだったので、落ち着いた頃に今度はもっと早めに誘おう」とか「日程は合わせるので、いつなら大丈夫。」と考えたり聞いたりするかと思います。でも、そうではなく「断られてしまった。きっと私のことが嫌いなんだ。」と考えてしまう人がいるかもしれません。ですが、これは事実ではなく勝手な思い込みであり、不信の種をまくことになります。


 相手のリアクションに対する受け止めかたもそれぞれです。ですが、正しい判断を心がけなければなりません。被害妄想的な受け止めをしてしまうとお互いが不幸になってしまいます。不信の種をまいてしまうと事あるごとに、相手への不信が高まり、それが怒りとなり、関係を悪化させてしまいます。相手も原因が分からないまま悪意にさらされ離れていってしまいます。お互いに何も悪いことはしていないのに、勝手な思い込みのせいで疎遠になってしまうのです。


 人間関係が難しいのは、相手の想いを確認せず勝手に思い込んでしまうからです。ちゃんと確認すれば笑い話になるのに面倒だと怠ってしまうと勝手な不安や怒りが増幅されてしまいます。自分が思うほど相手は思っていないものであり、何事も考えすぎは良くありません。シンプルに考えシンプルに行動するのが賢明です。私達の心には底なし沼があります。あまり深く沈まないよう気をつけたいものです。

 

廃部が正しい選択なのか

 某大学のアメフト部は廃部が議論されているようです。たまたま現役部員のインタビューを聞いたのですが、ほとんどの部員は一生懸命に頑張っていたのに、たった数名の部員のために連帯責任の名のもと廃部にされるのは納得できないとコメントしていました。実業団であれば廃部も分かりますが、成人も在学しているとはいえ大学は教育機関です。教育機関が更生という道を閉ざし廃部にしてしまうことには疑問があります。


 学生の薬物所持も問題ですが、それよりも大学側の対応が問題視された事件だったように思います。大学側の騒動はいまだに続いており、廃部にすることですべてを終わらせようとしているようにも思えます。大人の都合のために学生が犠牲になるのではかわいそうです。更生や再生は大変な道程なのですが、教育機関であるならば処罰よりも希望や救済を重視するべきだと思うのです。


 何事も責任という名のもとに辞めてしまうのが楽な方法です。もちろん、そうしなければならない場合もあるわけですが。世間や周囲もそうですが、まずは自分が納得できるよう努めたいと思うのです。まして責任を誰か弱い者に押し付けて逃げてしまうようではいけません。問題や課題はチャンスでもあります。そこでしっかりと対応することができれば今まで以上に信頼されますし、同じ過ちを犯すこともありません。大変ではあっても正しい道を選びたいものです。

日本人の祈り

 日本人は古来より朝起きればお天道様に手を合わせ、神仏やご先祖様に手を合わせ、「いただきます」と食べ物に手を合わせ、「ありがとうございます」と人に手を合わせてきました。この合掌によって感謝の心を育み深めてきました。ところが、現代は「ありがたい」が「あたりまえ」に変化してきています。この似て非なる言葉は私達をそれぞれ幸・不幸へと誘います。


 「あたりまえ」は不満となり、人間関係においてはイライラとなり争いを生みます。日常生活においてはストレスとなり無関心や無気力を生みます。「ありがたい」と思えれば人間関係は円満となり、日常生活は無条件に満たされるようになります。同じような環境や状況でも、それをありがたいと思う人もいれば、あたりまえと思う人もいます。ですから、「ありがたい」と「あたりまえ」は状況や条件ではなく習慣であり人間性なのです。


 誰もが幸福を求めますが、幸福とはどこか遠いところにあるものではなく、「ありがたい」と思える心にあります。朝に目を覚ますことができ、食事ができ、仕事や学校など向かうべものがあり、挨拶できる人がいて、帰るべき家がある。こういった日常をありがたいと思えることが大切なのです。朝には「今日一日よろしくお願いいたします。」夕べには「今日一日ありがとうございました。」という祈りが感謝の心を育んでくれます。静かに手を合わせてみたいものです。