新しい物語をはじめよう

 たまたま甲子園の開会式を見ていたら、流れてきた音楽はNHK連続テレビ小説エールに登場した「栄冠は君に輝く」でした。以前はただの甲子園の歌だったのが、「エール」を見たことよって、歌に込められた想いを知ることによって、より親しみを持つようになりました。同じく連ドラに登場したカップヌードルもそうですが、込められた想いを知ることで、ただのものではなくなります。


 目には見えない物語を知ることよって、特別なものになります。これはうんちくなどの知識ではなく、感情なのだと思うのです。感動や感謝というものがあって、はじめて特別なものになるのだと思うのです。ドラマを見て感動したから、親切に感謝したから、いつまでも心に残るのです。知識のなかで生活するよりも、物語のなかで生活したほうが豊かな生活になります。


 どのような人にも人生の物語があり、出会いによって新しい物語が始まります。様々な出会いによって得られた物語こそが人生の宝だと思うのです。その物語は波乱万丈の大冒険というものではなく、ささやかでおだやかな物語かもしれませんが、世界中のどこにもない特別なものだと思うのです。人と人との交わりは中島みゆきさんの「糸」にあるように縦と横の糸で新しい物語をつむいでいくのです。

 

 

貧しい生活とは

 新しい筆に変えたのですが、慣れるまでは思うように書けないものです。新しい筆がダメだということではなく、何事も慣れるまでには時間がかかります。長く使っていると穂先が割れるようになり交換するのですが、手に馴染むようになるまでは、お互いの癖を確認するかのような時間が必要になります。愛着ある筆を手放すのは残念なのですが致し方ありません。筆供養というものがありますが、筆を供養したくなる気持ちも分かります。


 愛着がわくのは長く大切に使えばこそです。小学校の書道ではプラスチックの筆ですぐに毛が抜け割れてしまいますが、それでは愛着や感謝は芽生えないのかもしれません。大量生産、大量消費、大量廃棄の時代ですが、物を大切にする習慣を育てるためには、良い物を使うことも必要なのかもしれません。相棒として長い時間を一緒に過ごせば人も物もかけがえのないものとなります。


 高いか安いかではなく長く使えるものを選びたいものです。ヨーロッパでは家も家具も新しい物ではなく、古いものに価値を見出します。今の日本は100年もたないものばかりです。日用品だったものが、いつの間にか伝統工芸品となり飾られるようになりました。良い物が生活のなかから姿を消し、捨てても惜しくないもがあふれています。そういった生活が豊かな生活なのかと考えさせられます。

 

 

死後の世界へ

 まもなくお盆を迎えますが、今年は帰省できない方も多いのかもしれません。辛抱の時期はまだ続きそうです。お盆にも諸説ありますが、先祖供養だと考えていただければと思います。正月は神道行事なのに対してお盆は仏教行事です。現在は家族や友人と焼肉やキャンプという人も多いかもしれませんが、お墓参りや仏壇への仏飯も忘れないようにしたいものです。


 死後の世界については誰も分かりませんが、何を信じるのか、どのように信じるのかが大切だと考えています。お盆にはご先祖様が帰ってくると信じられてきました。お墓に迎えに行って、食事を出して近況を見てもらい、お見送りをするのがお盆です。お盆の期間に心をこめてご先祖様と接していれば、いざ自分が旅立つ時にはお盆に帰ってくることを信じることができます。それは自分の命や魂というものが死後も続いていくという安心感につながります。死後は完全な無になると考えるのと、どちらが良いのでしょうか。


 日本人は古来より祖先への祈りによって死への安心(あんじん)を獲得してきたのです。ですが、心も形も失われてしまえば、お盆の意義も死への安心も失われてしまいます。ある程度の年齢になれば死を実感するようになります。その時に祈りの習慣の有無によって大きく違ってきます。祖先への祈りは自分への祈りであり、さらには子孫への祈りでもあります。祈る姿を見て育った子や孫もいつしか自然と手を合わせるようになります。まさに三つ子の魂百までなのです。科学的ではないもののほうが人の心を救ってくれるものなのです。 

 

次回の更新は8月16日からとさせていただきます。合掌

浄化のお手伝いを

 政治家は何をやっても選挙のためといわれ、坊主は丸儲けといわれます。職業に対する偏見なのですが、火の無い所に煙は立たぬといいますが、まったくの偏見というわけではなく、その職種にそういう人が多いのも事実なのだと思うのです。不思議なもので、困った人は目立つものですし、噂になるものです。善良な30人の同業者をもってしても、打ち消せない印象を与えてしまう人もいます。


 真面目な者が馬鹿を見るのは問題です。各業界や地域の浄化作用というものが必要だと思うのです。業界団体や町内会などは発展ばかりではなく、様々な問題の解決や浄化という役割も担っているはずなのです。業界として信頼されなければ、健全な発展はありません。いかに必要とされる業種であっても、儲かればいいという考えでは、いずれ衰退するのは必然です。


 全体が良くならなければ個の発展もありません。自分だけが頑張っても成果は限られており、みんなで頑張ることが大切なのですが、心をひとつにすることの何と難しいことか。問題意識のない人に現状維持を捨てさせるのは難しいものです。人を変えるのは熱意と時間だと思うのですが、なにより忍耐を求められます。一定数を越えると現状は劇的に変わるといわれますが、先導はできなくても、立ち上がった人を支えてくれる人の数が大切だと思うのです。良きサポーターとなりたいものです。

 


 

答えはあとから

 「そういうことだったのか」という理解が、あとからついてくることがあります。学生時代に必要性を感じなかった教科も今になってから勉強しておけばよかったと後悔します。高校時代に片道9kを自転車で通っていた頃は疲れるだけで不満しかありませんでしたが、あの通学が体力と根性を養ってくれたと感謝できます。厳しさも困難も悲しみも、時間が過ぎれば必要なことだったと思えるようになるかもしれません。


 今の時点ですべてに答えをだす必要はないと思うのです。上手に棚上げにしておくことで、あとからより素晴らしい答えを得ることができるかもしれません。不本意な環境にあると、どうしても都合の良い答えを作りたくなるものです。やめてしまうことは簡単なのですが、簡単なほうの選択は失敗や後悔につながりやすいものです。


 生きてさえいれば、続けてさえいれば、信じてさえいれば、なんとかなるものです。もちろん、どうにもならないこともありますが、そこは慎重な判断が求められます。まずは頑張ろうと思うことです。そう思うことで知恵が生まれ、仲間が生まれ、チャンスが生まれます。意味がないと思えることで、成長すれば意味を見出せるようになります。慌てて答えを求めるよりも、今できることに専念していきたいものです。

 

 

攻めと守りの人生

 ルールに頼ろうとする人もいますが、たとえば法律もルールですが、最低限のルールでしかありません。もちろん法律に違反すれば逮捕されますが、逮捕されことがないことは自慢にはなりません。最低限のルールを守っていても尊敬されるわけではありません。基本的にルールは誰にでもできることです。ルールを守るだけではなく、自分なりの生き方を求めていかなければなりません。


 ルールを守ることが防御だとすれば、攻撃とは自己実現を求めることだと思うのです。自己実現とは曖昧な言葉でもありますが、個性の追求と発揮すること、役割や居場所を得ること、夢や目標を求めること、社会や他者に貢献することなど、様々な達成感や充実感だと思うのです。いわば生きていることを素直に喜び感謝できることではないでしょうか。


 職業的には仏教や道徳は守るものではなく実践することで、より豊かな人生になるというアドバイスだと考えています。こういった古くから伝えられている智慧も素晴らしいものですが、まずは難しく考えるよりも楽しく生活できることが大切だと思います。この「楽しさ」のレベルをあげていくことです。享楽や快楽ではなく、楽しく充実した生活や関係を求めていくことが、攻めの人生になるのではないでしょうか。

 

 

 

苦界を生きる

できないことを頑張る苦しみ

できないことを誤魔化そうとする苦しみ

できないことを認めようとする苦しみ

 

 結局、何をしても苦しいものです。あとはどの苦しみを選ぶのか。お釈迦様はこの世界は苦界であるといいます。それならば苦しいことを前提にすることで覚悟が決まります。温泉だと思って飛び込んだら水だったのと、最初から水だと分かった飛び込むのとでは大きく違います。苦労に飛び込み、苦労にもまれ成長し、いつしか苦労が報われ、さらに苦労に感謝できるようになりたいものです。