本音に憧れても

 多くの人々が建前のなかで暮らしています。この建前と対になるのが本音なのですが、誰しも本音でありのままに暮らしたいと思うかもしれませんが、大人になれば立場や世間体などもあり、思っていてもなかなか言えないことが多いものです。思ったことが言えないのはストレスですが、孔子の「七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず」の境地でなければ、本音の生活は人間関係を疎遠にしてしまうかもしれません。


 無神経な言動にイライラしても、じっと堪えることで忍耐力を養うことができます。理性があるからこそ、本音を抑えて生活できるのです。理性と感情が格闘し、理性が負けてしまえば恥も外聞もない人間になってしまいます。言いたいことが言えてしまう人間に憧れることもありますが、そうなってしまったら怖いものです。


 基本的に人間の生活とは思うようにならないものです。不自由をあたりまえと思うことで、イライラや不満も少しは落ち着くというものです。今の自分の我慢は、自分の器を大きくし、相手との関係をあえて壊さず、周囲に嫌な思いをさせない、素晴らしい行為なのだと思いたいものです。そもそも常識のない人には何を言っても伝わりませんから、沈黙こそが最良の選択なのかもしれません。

 

 

 

期日より即日

 私は何日までお願いしますという期限に対して、なるべく早く応えたいと考えています。簡単なことであれば即日対応しています。相手も期日は設けても、早く欲しいというのが本音です。相手への配慮で猶予期間を設けているだけなのです。まして5人に返信を依頼して4人は即日、1人だけ5日後ということになれば、たった1人のため4日間も無駄に待たなければならなくなります。


 早い人はいつも早く、遅い人はいつも遅いものです。また、いつも督促しないと返信しない人もいます。それぞれの人の習慣となっていますが、迷惑をかけてしまうような習慣には気づかなければなりません。やればすぐできることを、いつまでもやらいのがいけません。周囲から指摘される前にやってしまったほうが、お互いにとって良いのです。言うほうも言われるほうも嫌なものです。


 人に何かを頼むときは、何日くらいで、どれくらいのものが返ってくるか想定しているものです。良い意味で相手の期待を裏切りたいものです。相手が感動するくらい早く確実に返せれば信頼関係を築くことができます。些細なことでも、しっかりやれば手抜きをしない人間だと評価されます。何か特別なことをやるのではなく、あたりまえのことを、いかにもあたりまえのようにこなすことが大切だと思うのです。

 

 

人生の始まり

 「自分で考えろ」が子供達への口癖になっています。言われたことをやるのは楽なのですが、やらされているうちは責任が伴わず、また学ぶこともありません。たとえ同じことをやったとしても、自発的にやっているかどうかで、得られるものは大きく違います。試行錯誤と責任感がなければ、やっただけで終わってしまうのです。


 社会では自分で考えることはせず、マニュアルに従うことを要求されることもあります。仕事であれば仕方ありませんが、自分の人生においては、誰かに委ねることなく、自分で考え選び行動していきたいものです。自分で考えることを放棄してはいけません。パスカルは「人間は考える葦である」と言っていますが、考えることから人生が始まっていくのです。


 何か特別なことをする必要はなく、あたりまえのことであっても、それをどこまで考えるのか、深めるものか、感謝するのか、感動するのかが大切だと思うのです。掃除ひとつでも、徹底すれば場だけではなく心も清らかになります。いかに日々の生活を豊かにしていくかを考えれば、「あたりまえ」を「ありがたい」に転換していくことが大切だと思うのです。

 

 

感情の安定


 人間には様々な感情があり、その感情が私達を苦しめることがあります。もし感情がなければロボットと同じなのかもしれませんが、人間を人間たらしめている感情なのですが、取り扱いには注意が必要です。どうしても感情はマイナスのものが強く心を占拠してしまうものです。不安、不信、憎悪、嫉妬、自己嫌悪、悲しみ、後悔など様々な感情が次々に襲ってきます。


 マイナスの感情をコントロールすることは難しいものです。夜も眠れず、食事も喉を通らず、何も手につかない状態が続くこともあります。イライラして周囲にあたっては人間関係が崩壊することもあります。どうすれば感情を安定させることができるのでしょうか。私は日常世界から離れて非日常の世界に身を置くことが必要だと思うのです。


 社寺仏閣に参拝すると不思議と気持ちが落ち着きます。古来より人間はコントロールできない感情を祈りに転換してきたのです。マイナスの感情は自分ではどうしようもないからこそ渦巻くのです。どうしようもないことは神仏に任せてしまえばいいのです。そのための行為が祈りなのです。ご利益を求めるばかりではなく、マイナスの感情に支配された時にも参拝して心を清めたいものです。

 

 

「何のために」

 人間の原動力となるものは想いであり、さらに追及するならば「何のために」ということが大切だと思うのです。絶望する多くの人々は「何のために生きているのか分からなくなった」とか「何のために頑張っているのか分からなくなった」と言います。自分の根底にしっかりとした想いがなければ、耐えることも続けることもできなくなってしまいます。


 大切なのは「何のために」という想いなのですが、どれほどの想いなのかを試すかのように試練が与えられるものです。本来であれば苦難や困難によって、さらに自分の想いを強くしていかなければならないのですが、そのためには初心のところで確たる想いを持たなければなりません。「なんとなく」の想いではなく、強い想いや誓いが必要だと思うのです。人生のすべてに強い想いや誓いを持つ必要はありませんが、「これだけは」というものをひとつ持ちたいものです。


 また、自分のための想いは意外と脆いものです。家族のために、お世話になった会社のために、困っているみんなのために、自分ではない誰かのためにという想いほど強く自分を支えてくれるものです。人間は基本的に自利(自分のため)ではなく利他(誰かのために)で本領を発揮できるのです。けして負けない強い想いを胸に大切な人々のために頑張りたいものです。

 

 

 

陰徳あれば陽報あり

 物事を損か得か、多いか少ないかを基準にして生きていると偏ってしまい、正しい道が歩めなくなってしまいます。昔話に登場する意地悪ジイさんは欲にまかせて、必ず悲劇に見舞われます。


 損して得を取れといいますが、この得とは「徳」のことなのです。自分のことばかりではなく相手のことも考える。嫌な役割であっても、みんなのために引き受ける。こういったことが徳を磨く修行となり、やがてそれに相応しい得がやってくるのです。徳のないところに得はありません。自分さえ良ければと思う心に徳は育たないのです。


 どうすればお金持ちになれますかという質問に、小さなコップはすぐに水があふれてしまいます。まずは大きなコップになることです。そうすれば自然とお金は集まってきますと答えました。自分の器以上のものは得られないものです。


 「陰徳あれば陽報あり」といいますが、宣伝するための善行ではなく、自らを大きくするための善行が大切だと思うのです。求めることよりも、与えることを楽しめる人が幸せな人なのです。損得や多少に翻弄されることなく、自然と人も物も集まってくるような徳を備えたいものです。

 

 

 

もうダメだと思う前に

 この人はもうダメだと思うことがありますが、我慢してもう少し付き合ってみると、許せるようになることもあります。たまたま相手の機嫌が悪かったのか、こちらが相手の地雷を踏んだのか、悪魔のように思えることもあります。ですが、もう一度確認してみると悪魔というのは錯覚で、まあまあ普通の人ということもあります。相手にも自分にも「もう1回のチャンス」を心がけるようにしています。


 切ってしまうのは楽なように思えても、狭い世の中では必ずつながり、かえって気まずい思いをすることもあります。それならば目の前にいる30分間と思い出してイライラする30分の合計1時間を我慢したほうが良いのかもしれません。人間関係は開き直ったほうが楽になります。病院についてから注射が終わるまで嫌だ嫌だと過ごすのではなく、どうせ打たれるなら注射を楽しみにするような、気持ちの切り替えが人間関係でも大事だと思うのです。


 嫌だけど避けられないことを、どのように受け入れるかで、結果も気持ちも大きく変わってきます。好きなことをするのは誰にでもできますが、嫌なことでもできること、さらには嫌なことでも好きになれることが大切だと思うのです。好きなこと楽なことばかりではない人生を有意義なものにするためには、食わず嫌いにならないよう、様々な人間関係にも挑戦していきたいものです。