囚われず楽に生きる

 狭い所にいると窮屈で苦しくなりますが、人生においても狭い価値観でいると苦しむことが多くなります。価値観とは表現を変えれば自分が許すことのできる範囲ともいえます。「○○でなければならない」と自分や周囲を縛れば縛るほど窮屈で苦しくなります。あれもダメ、これもダメと否定すればするほど自分の居場所がなくなってしまいます。変化の激しい現代社会にあっては、いかに変化に対応していくかも重要な課題となります。


 現代は保守的・固定的な価値観が崩壊しています。法律に違反しなければ、あとは各人の自由ともいえます。長く日本人を律してきた倫理道徳というものが希薄となり、自分さえ良ければという風潮が蔓延しています。この風潮は問題だと思っています。各人が権利ばかりを主張して義務を放棄すれば社会は崩壊します。退廃的な社会での生活は快適なものではありません。ですが、いかに現状を嘆いても社会が変わるわけではありません。


 容認できない現状のなかでいかに生活していくかを考えなければなりません。現状を否定すればするほどイライラして苦しくなります。これは対人関係においても相手を否定するほど、相手よりも自分が苦しむことになります。たとえ認めることはできなくても、受け入れなければならないこともあります。そのためには執着しない心が求められます。執着とは欲しいということばかりではなく、頑固に拒否することも執着です。もっと心を自由にして来るもの拒まず去るもの追わずの心境で広く大きな心でありたいものです。そうすればどのような時代であろうと、もっと楽に生きることができます。

 

 

2020年 子年の意味と心構え

 来年は子年です。子年は十二支の始まりであり、種子のなかに新たなる生命が宿った状態を表します。また増えるという意味もあり子孫繁栄や蓄財を表すことからネズミがあてられました。そのため子年の守り本尊は千手観音なのですが、ネズミを使いとする大黒天の御縁年にもなっています。可能性のある未来へ向けて出発する年であり、明るく希望に満ちた一年にしたいものです。ネズミには行動力があり、ひとつひとつの動きは小さくても継続することで、やがて大きな成果となります。まさに積小為大を象徴しています。

 

 個人的には十二支のなかで最も小さく弱いネズミが最初にあてられたのは、新しい十二年をはじめるにあたり、まずは自らの弱さを知ることが大切であるという教えだと考えています。何事も謙虚であるからこそ周囲の理解と協力を得て着実に歩むことができます。自らの弱さを知るからこそ、相手の弱さも理解でき、お互いに助け合うことができるのです。人という字は二人の人間がお互いを支え合う形であり、人間という字は一人で生きることはできず人の間でしか生きられないということです。和を尊び支え合いたいものです。


 今年は庚子(かのえ・ね)の年です。庚はあらたまるという意味があり、子が始まりを意味するのに対して庚は変化を表します。このふたつが合わさることで新たなる局面を迎え、それに伴う成果も期待することができます。そのためには自分なりの価値観や信念を持ち、揺らぐことなく着実に歩んでいかなければなりません。せっかくの好機も何もしなければ得られるものはありません。謙虚な気持ちで小さなことから丁寧にはじめ、新たなる十二年を創っていきたいものです。新年を迎えるにあたり皆様の益々のご清福を心より祈念申し上げます。合掌

経営の極意

 寒くなるこの季節は頭の丸刈りも床屋さんに行きます。いつも行っている1000円カットが定休日だったため初めてのお店に行きました。同じ料金、時間、内容なのですが、店舗によってずいぶん違うものだと実感させられました。ほんの少しの配慮や手間があるかないかで満足度が大きく違います。このことが分かっているお店は繁盛し、分からないお店は閑古鳥が鳴くわけです。


 本屋には様々な経営の指南書が並んでいますが、経営の本質とは難しいものではなく、基本的で単純なことだと思うのです。それが分かっているか実行できているかの差だけなのです。経営者を気取りお客さんを数えながらソロバンをはじいているようでは破綻します。お客さんの財布ではなく心が見えて初めて満足なサービスを提供できるのです。どのような仕事でもお客さんに喜んでもらう、社会に貢献するという想いが問われるのです。


 どのような立場で仕事をするにしても喜びと貢献というふたつのキーワードがなければ楽しく充実した仕事はできません。現在は利益ばかりを求められる仕事もあり、仕事を選ぶときには給料や待遇よりも、喜びと貢献を感じられるかということも大きな判断材料だと思います。先々のことなどどうなるか分からない時代だからこそ、社会の幻想的な価値観に惑わされることなく、自分が納得できる仕事に就けた人こそが幸せな人だと思うのです。

 

 

猶予された命

 健康診断で再検査となり総合病院で重い病名を告げられました。ですが、どうも納得できず専門医に再検査してもらったら問題ありませんでした。健康であることが証明されましたから誤診を問題にする気もありませんが、告知から再検査までの5日間は苦悩の日々でありとても平静ではいられませんでした。考えれば考えるほどマイナス思考となり明るく前向きな思考など持てませんでした。


 自分ではどうしようもないことは受け入れるしかありません。いかに否定しても現実が変わるわけではありません。ですから3日を過ぎたころには少し落ち着いたように思います。いかに衝撃的なことであっても、時間が経てばその衝撃はおさまってきます。おさまったところでいかに心を修復していくかを考えなければなりません。心の修復とはどのような考え方をするかだと思うのです。


 よく半分になったコップの水をどのように考えるかという質問があります。楽観的にまだ半分あると思えるか、悲観的にもう半分しかないと思うかの違いです。私達にできることは残された時間や可能性を大切することしかありません。できることをいかに前向きに考えていくかなのです。今回は猶予されましたが安心して終わりということではなく、切実に自分の命と向き合っていきたいと思います。

 

 

100点は疲れます

 同期のサクラも最終回を迎えました。主人公は自分のことを忖度できない人間といっていましたが、私は現実に100点を求める人間のように思えました。人生において100点を求めている人は少ないものです。多くの人々は60~80点といったところでしょうか。100点を求めて生きることの大変さを知るがゆえに程々のところで生活するというのも、ひとつの知恵なのだと思います。100点を取るためには、ここでこうしなければならないと分かっていても、あえてしないという選択です。日々の生活においてはそういった選択がたくさんあります。妥協と表現するよりも、そこまでは頑張らないという選択です。


 100点を求めようとする人は最後まで頑張ろうとします。ところが頑張りすぎて疲れてしまったり、周囲にも同じ頑張りを求めてトラブルになったりもします。この世界にはあたりまえのように100点を取り続ける人もいますが、私には何点が最善なのかと考えさせられます。100点を3回取るのも60点を5回取るのも30点を10回取るのも同じなのです。大切なことは無理せず点数を積んでいくことです。30点であることを責められればイラっとしますが、自分の問題であり着実な30点だと思えばいいのです。


 学校で洗脳された100点を目指さなければならない、100点の人が優れているという妄信は捨てなければなりません。人生を点数で計ることはできません。点数をつけようとして、その点数に満足できないところに不満と苦悩が生まれるのです。もちろん安易に怠慢な生活を推奨しているわけではありません。運動不足は不健康ですが、無理な運動も健康を害します。周囲に惑わされることなく、自分のペースを守り暮らしていきたいものです。

 

 

偉業よりも心

 歴史秘話ヒストリア渋沢栄一が取りあげられていました。新札になることで注目を集めていますが、その著書である論語と算盤は現代日本にこそ必要な思想だと思います。番組ではその生涯を簡単にまとめて紹介していました。ですが、私は生涯や功績よりも、その心を学ぶことが大切だと考えています。その偉人がどのような想いで生きたのかを学ばなければなりません。


 たとえば経営者が渋沢栄一松下幸之助を目指そうとして足跡を真似しても意味がありません。大切なことはどのよう志をもって足跡を残したかなのです。私利私欲で真似しても到底及ぶはずもありません。両氏とも社会のために社会で暮らす人々のため事業をおこないました。その尊い志が分からなければ学んだことにはなりません。人間を動かす源泉は心であり、様々な偉人の心を学ぶことが自らの成長につながります。


 偉人の心とは志であり、努力であり忍耐であり揺れることなく目標まで歩み続ける意志であり、自分のことよりも社会や他者への利他の心であると思います。結果よりもその過程にある心に注目しなければ、単なる偉人の知識になってしまいます。偉大なる心を見るからこそ感動があり、少しでも近づこうという想いが芽生えるのではないでしょうか。歴史に名を残せる人は選ばれた人なのでしょうが、自分なりに社会や人のために少しでも頑張ろうという想いが尊いものであり、偉人への第一歩なのではないかと思います。

 

 

働くことの意義

 人材が求められているといいますが、余計なことは考えるな言われたことだけ忠実にこなせという会社も多いのかもしれません。まるで機械にデータを入力するかのようにマニュアルで縛っているところもあります。働く方も慣れてくると機械のように表情も感情もなく決まりきった対応をするようになります。どのような業種であっても心の伴わない仕事はつまらないものであり、働き方改革を掲げるならば、この問題についても考えてもらいたいものです。


 仕事には喜びと成長が必要だと考えています。大企業の正社員から学生のアルバイトまで楽しく働けてこそ国が発展していくと思うのです。高度成長期は今よりも労働環境は最悪だったと思いますが、誰もが楽しく働いていたように思うのです。それがいつの間にかつまらない仕事が増えていきました。社畜という言葉が象徴するように、働くことの意義が見失われています。それはやはり国や企業の責任だと思うのです。


 国や企業が優先すべきは税収や利益ではなく、働く者に喜びや成長を与えることだと思うのです。そうすれば必然的に税収も利益もあがります。これを単なる理想として遠ざけるのではなく、その実現に向けて本気で考えなければ繁栄はありません。ボランティアでは充実感や喜びを得ることができるのに、仕事では得られないとしたら本末転倒です。本来は仕事によってこの社会に貢献することが本義なのです。労働環境をどのように改善させていくのか。働くことの意義から考えてみたいものです。一日の大半を費やす仕事がもっと楽しいものになれば、人生はさらに素晴らしいものになると思うのです。