本気な人

 この世界において人が苦しむ原因のひとつに本音と建前があります。私達は自分の思いを抑えることで、時には偽ることで社会生活を営んでいます。けして全員の思いが一致することもなければ、すべての人と分かり合えるわけでもありません。そのため思ってもいない発言も行動もありますが、それは処世術ともいえるのかもしれません。ですが、本音を抑えるほどストレスが溜まり、苦悩が深まるものです。


 たとえば社交辞令で「すごいね」と言っている人と、本気で思って言っている人では大きく違います。本気で思っている人には発見と感動があり、素晴らしい一日となることでしょう。講演などを聞いていても、職業的な話し手は心地よく分かりやすく楽しい話をします。反対に本気で一事を成してきた人の話は不器用ではあっても心が揺さぶられることがあります。表面的なところではなく、深いところに真実の響きがあるからなのかもしれません。


 本気な人には敵わないものです。本気で思っている人は、本気で行動します。本気の人は「そこまでやるか」というところまでやります。その熱意が自分を変え周囲を変えいくのでしょう。私などは効率的であったり、周囲に遠慮してしまいますが、そういった縛りを軽々と越えていくのが本気の人なのです。私も自分の思いを高め、何かを本気でやってみたいものです。

 

人生の期待値

 新聞の大学生調査で将来を考えた時に子供が欲しくないという回答が19%にのぼったそうです。うまく育てられる自信がない、自分の時間がなくなる、経済的に不安、子育てに伴う責任を負う自信がない、精神的に不安、子供を持つ必要性を感じないという順に理由があげられていました。男女比では女性が23.5%、男性が12.1%と女子学生にその傾向が大きいようです。コロナ禍や現在の物価高を経験している学生は将来の不安も強いようです。


 学生の頃は将来への期待と不安が入り交じるものですが、願わくば不安よりも期待を強く持っていただきたいものです。社会は人の心を反映するものです。不安が強ければ、その不安が現実となりやすいものです。知らないうちに不安を現実のものとしてしまうことがあるのです。たしかに自然災害は増えるばかりで、物価も高くなるばかりで、様々な不安材料がありますが、そのうえで楽観的に考えることができれば、そのように進むことができるかもしれません。


 人生は知性で成り立っているものではありません。考えることで答えがもたらされるものではなく、人知を超えたご縁や導きといったものが重要になると思うのです。大事な選択ほど知性に頼るよりも、流れというものに身を委ねたり、考えるよりも勢いで進んだほうが上手くいくこともあります。自分の世界にこもるほど不安が大きくなるものです。広い社会で前向きに様々な経験をしていくことで、自信をもって自分の人生の期待値を高めてほしいものです。

 

こだわらない心

 隣町への主要道路が狭く大変でした。道路拡張の要望看板も立っていますが、両側は住宅街となっており、移転させての拡張は難しいだろうと思っていました。先日、久しぶりに通ってみると、住宅街を迂回するように山側に新しい道路がありました。狭い旧道はそのままありますが、ほとんどの車は新し広くてアクセスの良い道路を走りますから、多額の予算で既存の道路を拡張するよりも効率的に見えました。


 何事も発想の転換が大切なのだと思います。こだわっているうちは新しい発想は生まれません。そのこだわりを捨ててこそ、代わりに得られるものがあるのです。同じ時間とお金をかけるにしても、徒労に終わることではなく、意義のあること効果のあることにかけたいものです。どうにもならないような事態でも、必ず道はあるものです。その道に気づくことができるかどうかが問われるのです。


 情報を仕入れることも、その情報を精査することも必要ですが、それよりも先入観のない心で広く深く物事を考えることです。このような心の状態を整えることが大切なのですが、平時ではなく緊急時こそ求められる心境ですから、日頃からの修練や心がけが、ここぞというときに自分を支える大きな力になってくるのではないでしょうか。

 

相手から学ぶべき事

 信頼関係の維持には不断の配慮と忍耐が求められるものです。親しき中にも礼儀ありといいますが、気を使う関係は疲れますし、古くからの同級生のように好きなことを自由に言い合える関係こそ本物なのだと思うこともあります。ですが、人間関係を選り好みして、楽な関係ばかりを求めてしまう、また表面的な付き合いに終始してしまうと、人として成長する機会を失うことにもなります。


 私は本やネットよりも対人関係で学ぶことこそ智慧につながるものだと考えています。知識は人を成長させることも幸福に導くこともあります。対人関係から何を学ぶかが大切なのです。私は相手の言葉ではなく価値観・習慣・行動・信念などに目を向けるようにしています。相手が言いたいことではなく、その人間を成しているものから学びたいと思うのです。


 表面的な関係では相手のことは分からないものです。信頼できるのかすら分からないのです。些細な会話から急展開することもありますが、それは相手のことを知りたいと思うことがスタートだと思うのです。「どうでもいい関係」を卒業して、様々な年代やタイプの人々と有意義な関係を築いていくことができれば、私の人生を大きく広げてくれると思うのです。

 

陰徳あれば

 陰徳あれば陽報ありといいますが、人知れず善行を積んでいる者は必ず報われるということです。人はまず自分の生活を整えていかなければなりません。ですが、自分のことばかりではなく、周囲や社会のための善き役割を持たなければなりません。善行は目立つためや見返りのためではなく、「させていただく」という謙虚な姿勢でおこなうのが尊いのです。そういう人には天も人も信頼し味方をしてくれるものです。自分の為だけに生きているのは虚しいことです。善意で人とつながり、自分なりの役割をもって貢献できるよう一日一善を心がけ陰徳を積み、善き世界の住人となることで幸福に暮らしたいものです。

不動のこころ

 ストレスとなるイライラやバタバタのスイッチをすぐに入れないようにしなければなりません。心が不安定になると自分の弱いところが表に出るようになり、それがまたストレスとなり習慣となり泥沼にはまります。どんとかまえて動じない「不動のこころ」が大切です。イライラするのは距離が近いから、無関心なのは距離が遠いから、程々の距離感で負の感情に巻き込まれないこと、挑発に応じないことです。波が大きくなれば船も転覆しますが、人の心もおだやかでありたいものです。何事もなるようにしかなりません。これはあきらめではなく、達観しなければなりません。ストレスは自分の心が作るものであり、その心を守るのも自分なのです。

猿が教えてくれたこと

 野生の猿がよく遊びに来ます。餌場を見つけるとまずボス猿がお腹一杯に食べます。その間は他の猿はじっと見ています。ボス猿はますます体が大きく強くなり、満足に食べられない他の猿はなかなか強くなれません。野生の厳しさを見たように思いますが、人間の世界も生まれながらに格差があり不平等なものです。ですが、猿の世界に比べれば、人間の世界は自分の気持ちひとつでいくらでも力をつけることができます。


 力にも様々ありますが、自分の適性に応じた力を養うことが大切です。苦手なことよりも得意なことに努力したほうが楽しく成果もあがるものです。陰ながらの努力というものは、誰かに邪魔されることがありませんから、いかようにも力をつけることができるのです。野生の世界では強いものを倒さなければなりませんが、人間の世界では相手を倒すことよりも、自分に負けない継続が求められます。


 野生の世界は厳しく強さを求められますが、人間の世界は強くなくても生きていくことができます。ですが、努力する必要がないということではありません。現状に甘んじても生活できますが、向上心を持って得意なことを作っていく、求められる自分の居場所や役割を作っていく、自分の人生を自分の力で開拓していくことは楽しいことではないでしょうか。