誤解されやすい仏教の本質

 仏教といえば葬儀を連想する人が多いように思われます。日本のほとんどの葬儀は仏式であり、葬儀専門の寺院も多くあり、葬式仏教と揶揄されることもあります。しかし、仏式の葬儀が普及したのは江戸時代からであり、長い歴史のなかで見れば最近のことです。それ以前は儀式よりも祈りが主だったのですが、今もそうですが「祈り=ご利益」というイメージがあり、利益仏教と揶揄されてしまいます。


 葬儀も利益も仏教の入口であり、そこから進んだ仏道のゴールは平安なのです。仏教とは掃除と同じように、不要なものを整理して、本当に大切なものを残す作業です。自らの心をシンプルに整えていくことで、安らかなる境地を得られるのです。あれもこれもと欲を出して抱え込んでしまうとゴミ屋敷になってしまいます。整理整頓され自分にとって本当に大切なものが、どこにあるのかすぐに分かるようにすることが仏教なのです。

 

 

あなたは、どのタイプ

溺れている人
 不平不満に埋もれ、自ら敵を作り、争いを作り、自分で自分を苦しめている人です。自分は不幸だ被害者だと嘆いても、よくよく考えてみるならば、自分の問題であると分かります。社会や相手は自分の心を反映しているだけなのです。

 

流されている人
 あまり自分という存在を意識することなく、自己主張よりも相手に合わせれる人です。相手を尊重し、相手に譲れる人ですが、自分の信念がないともいえます。相手にゆだねるばかりだと時に自分という人間が分からなくなってしまいます。

 

生きている人
 自分という人間を確立しようと積極的に生きている人です。すべて自己責任で活動し、希望や活力があり充実していますが、自己中心に陥りやすいところもあります。自信が傲慢にならないよう、積極性が無謀にならないよう気をつけなければなりません。

 

生かされている人
 とても謙虚であり、自分は社会や周囲の恩恵によって生かされていると考えられる人です。欲よりも感謝の心が強く、おだやかに暮らすことができます。理想的な生き方であり、人生経験によってこの境地を目指していきたいものです。

 

すべては変わるから

 同じことを同じ時間やっても人によって覚えかたは違うものです。得意なこと苦手なことがあり、時間のかかる人もいれば不向きな人もいるものです。職場やクラスにおいても、注目される人は限られています。勉強や部活でも順位がつけられ上位は限られています。同じ人間であるのに不公平であり理不尽だと思うこともありますが、それが社会というものなのでしょう。


 点数や周囲の評価がすべてではありません。こういったものに頼ってしまうと、かえって自分を見失ってしまいます。社会や周囲は表面的なところしか見えず、表面的な評価しかできないのです。表面的な評価が自分のすべてではありません。私は百点を取る人よりも、周囲への配慮ができる人のほうが素晴らしいと思います。部活で優勝する人よりも、みんなのサポートができる人のほうが素晴らしいと思います。


 人生を長い目で見るならば一時の成功や評価よりも、地道な努力や人柄のほうが大切だと思うのです。表面的な評価に一喜一憂することなく、自分を信じていくことが大切です。劣等感や欠点もいつのまにか気にならなくなり、自分なりの個性や特技も備わっていくものです。今の評価が長い人生のすべてではなく、すべてが変わっていくものです。今の自分が50点だと思っても、30年後に80点になっていればいいのです。すべては変わっていくからこそ、未来の自分に希望を託していきたいものです。

 

 

お金が使えなくても

 人生の豊かさとは何かと考えれば、以前はお金を稼いで海外旅行やブランド物など、物質的な豊かさが幸福の条件だったように思います。しかし、現在はコロナ禍にあり自粛生活を強いられています。それはお金を使いたくても使えない状況でもあります。生活様式や価値観など大きな転換期にあります。


 これからの時代の楽しみとは、個人的・物質的な楽しみばかりではなく、社会や地域に貢献すること、人に喜んでもらえることを大事にできればと思うのです。自分の能力や時間を自分のためばかりではなく、周囲のために使うのです。仏教ではこれを布施といいます。お金ではなく、人々のための行為が本来の布施なのです。


自粛生活もみんなのため、社会のためと思えれば不満ばかりではなく、耐えるだけの意義も生まれるというものです。家族も家でゆっくりとお互いの話を聞きながらの団欒も良いものです。物質的な満足ではなく、精神的な充足が求められます。それはお互いを想うやさしい気持ちに触れた時に生まれるものです。スマホやゲームばかりではなく、物に頼らない豊かな時間を大切にしたいものです。何気ない会話にも喜びや希望を見出していきたいと思うのです。

 

 

コロナストレス

 長引くコロナ禍は知らず知らず私達の心を侵食しているように感じられます。たとえ感染していなくても不安やストレスを増幅させています。職場での不安やストレスが家庭に持ち込まれ家族に伝染し増幅されては、職場や学校に還元されさらに増幅されるという負の連鎖が続いています。終息への道程がまだ見えないからこそ、気をつけなければなりません。


 こういう時こそお互いに心に余裕を持たなければなりません。不安やストレスは周囲への思いやりを阻害し、イライラした険悪な関係へと誘います。負の感情に翻弄されることなく、平常心を保たなければなりません。危機感は大切でも暴走してはいけません。慎重であるべきですが、臆病になってはいけません。こういう時こそ自分の心を点検しておかないと、いつの間にか漂流することになります。


 山で遭難しても、すぐであれば引き返すことができます。私達の心も迷ったと思ったら、おかしいと思ったならば、その先に進んではならないのです。意地を張って進むほど、自分だけが正しいと思えてくるものです。しかし、そう思っている時点で迷走しているのです。謙虚であること、誠実であること、やさしくあること、自分の心に目を向けて徳目を確認してみましょう。

 


 

心を伝えるために

 私達は相手に自分の心を見せることができません。相手に想いが伝わらない時、この不安、この信頼、この悲しみを、自分の心をそのまま見せることができればと思うことがあります。ですが自分の心を見せることができないからこそ、私達は自分の言葉や行動で自分の心を相手に伝えなければなりません。


 言葉や行動で自分の心を伝えようとするときに気をつけなければならないことは、相手の心に響かせるということです。同じ言葉でも、相手が面倒だと思って聞くようでは響きません。信頼関係があってはじめて言葉に重みが備わり、響くようになります。大言壮語の口だけの言葉でも響きません。有言実行が信頼の基本であり、アピールすることなく日々黙々と行動している人の言葉ほど響くものです。


 自分の想いを偽る言葉や行動、自分の想いを実現させようとする言葉や行動、どちらなのかは周囲にも伝わり、それによって態度も変わるものです。また言葉や行動に品格や人格がなければ魅力を感じないものです。1日のなかでたくさんの言葉と行動が生まれるわけですが、そのひとつひとつに自分の心をしっかりと託さなければなりません。朝の挨拶ひとつにも、しっかりと心をこめたいものです。

 

 

家庭円満の秘訣

 家族関係の悩みは古今東西を問わず多いのではないかと思います。新しく嫁いでくる人がいて、新しく生まれる命があり、新しく旅立つ人がいて、つねに新たになっていきます。家族とは固定的・閉鎖的なものではありません。水の流れのように様々な支流が集まり大海へと流れていくようなものです。


 家族は変化ということを念頭に置かなければなりません。赤子も成長して大人となり、嫁はいつしか姑となり、家長は隠居者となり、時代も立場も変わっていきます。そのなかで家族の絆を育まなければなりません。これは土を耕すようなものです。土が豊かでなければ、そこで育つ作物も良いものは育ちません。血縁に頼ることなく、信頼関係を築いてこそ、幸せな家庭となります。


 土づくりには時間と忍耐が求められます。見た目では分からないかもしれませんが、手をかけた土は違います。どのような種をまいても豊かな実りがあります。家庭もどのような人であれ仲良く豊かに暮らせる土壌が求められます。美しく咲く花に憧れるならば、その花を支える土を求めなければならないのです。