悪さえも慈しみ

 成長の段階に応じて、まず正しいこと悪いことの区別ができるようになります。ところが誰もが悪いと分かることが社会からなくならない矛盾に気づきます。社会システムから隣のおじさんの悪癖まで、悪いことがそのまま放置されていることに憤慨する正義感も芽生えます。しかし、いかに憤慨しても同級生の悪ふざけもなくならないなかで、許容される悪というものを意識するようになります。逮捕される悪もあれば、黙認される程度の悪があることを知ります。さらに悪というものが人の弱さや愚かさから生まれることを学び、それゆえ悪がなくなることはないと気づきます。人が生きるということには悪が伴うものであり、善も悪も親しき友であると思えることで、自分も相手も社会も許すことができ、この世界でありのままに暮らしていくことができるのかもしれません。自分という存在を通して、人間というものを理解しなければなりません。理屈ではなく智慧を学ばなければならないのです。智慧によって、この世界のすべてのものが尊く見えるようになります。それこそが仏様の見方なのです。