道徳を利用して

 誰しも好き嫌いがあるものです。自分がどうしても好きになれない食べ物を「○○は人間の食べるものではない」という発言は良識ある大人は慎まなければなりません。それを好きな人もいますし、食べ物に対して失礼なことでもあります。何事においても好き嫌いがあり価値観が異なるものですが、それはあくまで自分のことであり社会共通のことではないと理解しなければなりません。


 自分の感情や価値観を自分のなかに収めるということも必要なことです。「こうしなければならない」とか「ああすべきである」という思いが強くなり外に向けて発信されると、それは多くの場合には相手への押しつけになってしまいます。それは嫌悪感や反発を誘発するだけなのです。社会共通の認識と個人の価値観を区別して生活しなければなりません。


 たとえば法律に基づくことは共通のルールです。会社や学校などの規則もそこに所属する人にとっては共通のルールになります。また道徳も法律のような拘束力はありませんが、みんなが道徳を守ることで社会が良くなり全体の利益となりますから、努力目標であっても共通のルールと考えることができます。ところが、共通のルールであってもお互いの感情や思惑がからむと争いの種になってしまいます。


 社会のルールや道徳がお互いを責めるための道具として利用されます。自分を正当化し相手を責めるための道具になれば、いくら正しくても相手を納得させられるものではありません。私達は社会共通の認識と個人の価値観を区別しなければなりませんが、さらに社会のルールや道徳を相手を責める口実にしてはいけないのです。人間の感情は正当化できないものです。その感情を正当化しようと理論武装すると、争いはさらに深刻になるばかりです。



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