あるべき姿

 山にある木々は動くことができませんから、太陽や雨を待ち台風や吹雪に耐え生きていきます。では、こういった植物は地球に依存しているのかといえば、そうではないように思います。依存とは勝手に期待して、その期待が裏切られれば、不平不満に埋もれることです。木々はけして不平不満を口にはせず、黙々とあるがままに生きています。これは単に言葉が話せないからと考えるのではなく、大地にしっかりと根を張り、大空に向かって枝葉を伸ばし、何物にも屈せず悠々と立っているその姿に学びたいと思うのです。


 木々は自然界にあり依存することなく自立して、自然の一部として存在しています。その存在が他の命を守り育んでもいます。ところが人間は社会に依存して暮らしています。道路も電車も電気も水道も自分が作り出したものではなく、社会という巨大な枠組みのなかで形成されたものであり、その設備投資に比べれば雀の涙のような金額で、自由に使っているのですから、ありがたいというほかはありません。


 近年は社会に対する不平不満が噴火しているように思えます。恩恵と義務は放り出し、権利ばかりを主張して不平不満に埋もれています。自分のストレスや不安を発散するかのように、何に対しても探し出してまで文句をつけているような人もいます。いつもイライラして文句ばかりの生活に幸せを感じるのか疑問なのです。人は社会のなかで恩恵を受けて暮らしている。人は幸せになるために生きている。このふたつの真理を合わせて考えるならば、どのように暮らすべきなのか、自ずと見えてくるのではないかと思うのです。



応援クイックお願いします
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村