簡略化の悲劇

 テレビの番組でロボットがお経を唱えているものがありました。葬儀が高額だという批判は昔からあり、時代の流れのなかで葬儀も簡略化されるようになりました。家族葬や火葬だけという形式も珍しくなくなりました。また、ゆうパックで遺骨を安価に引き受けるサービスも注目されています。これからは火葬してロボットがお経を唱えてゆうパックで送って終わりという終活になるのでしょうか。


 現代の形だけですませてしまう風潮は改めるべきだと考えています。たとえばお経は功徳を積んだ僧侶が唱えるからこそ意味があります。もちろん現代の僧侶に功徳があるのかという疑問もありますが、そういった根本的な所から考えなければならないと思います。単純に金額だけの問題で安価なロボット読経を選んで良いということではありません。遺骨についても、墓地の維持管理の不安から永代供養塔が人気なようですが、故人に対する感謝や供養がなく預けたら終わりというのでは、うかばれないと思います。


 いかに形よりも心を重視して、心を込めて生活するかを考えなければなりません。忙しく料理が面倒なので総菜を買って食事をすることもできますが、たまには時間をかけた料理を食べることで、食べるという行為だけではなく、食事を楽しむことができるのだと思うのです。同じ家にいながらラインで会話をする家族もいますが、一緒にお茶を飲み語らうからこそ、連絡という行為ではなく、家族の時間を楽しむことができるのです。機械が掃除をしてくれますが、自分でしなければ掃除が終わった爽快感を感じることはできません。何事もすべて面倒だと感じ簡単にすませたいと思うようなら気をつけなければなりません。人間の生活とは省くことではなく、手間をかけることから豊かな時間が生まれてくるのです。楽ばかりを求めていては幸せにはなれないのかもしれませんね。




応援クイックお願いします
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村