ミックスジュース

 あまりジュースは飲まないほうなのですが、最近は色々なミックスジュースが出ているようです。単独の味よりも、上手に合わせればより深い味わいになるのかもしれません。素材の相性や配合などメーカーの発想と技術の見せどころです。人生においても様々な経験が合わさることによって、より豊かな人生になるのではないかと思うのです。


 順風満帆に歩むのも良いのですが、失敗があったり、寄り道があったり、避難したり様々あってかまいません。絶対の正解はなく、本人が納得できればそれが正解になるのです。「あの時に失敗したから今がある」とか「あの時の経験は無駄ではなかった」と思えるような、不本意ながらも負けずに頑張った経験や、あえて道を逸れた経験が、後になってから活きてくることもあります。


 先々のことなど誰にも分からないなかで、あらかじめ正解があるのではなく、自分なりの正解をつくっていかなければならないのです。誰かに採点してもらうのではなく、合否は自分が決めることなのです。様々なことがっあた、そのすべてが今の自分をつくっている。そして「まあまあ幸せだった」と心から思えることが大切だと思うのです。


 

日本を信じる心

 濃厚接触者になってしまい参拝者の受け入れも休止しなければならなくなりました。ご予約いただいていた参拝者もありました。当日、お越しになっても会って対応することができず、立て看板にて説明し、外から電話をいただくしかありませんでした。せっかく来ていただいたのに、楽しみにしていただいていたのに、何もできずに帰っていただくのは私としても無念でした。ですが、文句を言われるどころか、こちらを気づかっていただき、本当にありがたかったです。


 日本では10人に1人がクレーマーといわれ義理も人情もない日本になったと嘆かれますが、今回のことで私はまだまだ日本も捨てたものではないと思いました。社寺仏閣に参拝するような人だからそうなのであって、普通ならそうはいかないと思われるかもしれません。ですが、どうしても良識のない人間は目立ってしまい、記憶にも残ってしまいます。そのためごく少数であっても多く感じてしまうものです。


 「もはや日本は終わりだ」と思って生活するのと、「まだまだ日本は大丈夫だ」と思って生活するのでは、その精神状態は大きく違います。自分が生まれて暮らしている国を誇りに思うことができればと思うのです。たしかに日本の衰退は数字にも表れていますが、自分の国を信じることができれば、再び日本が世界をリードする時代が到来すると思うのです。その原動力は政治や経済ではなく、信じる心だと思うのです。

 

引力の法則

 惑星には引力がありお互いに引き合って太陽系が成り立っていますが、人間もそれぞれに引力を持っており、引き合ったり反発したりしているようです。引き寄せの法則というものがあります。今回のテーマと同じなのかは分かりませんが、その人が望むことよりも、その人が持っている属性と同じものを手繰りよせるのかもしれません。


 善意は善意を引き寄せ、悪意は悪意を引き寄せます。同じような人間が集まるのもお互いの引力によるものかもしれません。良くも悪くもお互いの属性が増幅され、個人ではできないところまで到達します。集団の力の根底には類似する属性があり、知らず知らず同じ属性に惹かれていってしまうのです。


 人間は同じような環境や人間に安心感を抱くものです。自分が求めている環境や人間について考えてみることも必要です。私達には刺激も必要であり、良き刺激が自分を成長させてくれるのです。尊敬に足る人を尊敬できるのか。そういう人との出会いの場を求めているのか。現状維持は惰性につながりやすく、善きものを求められるよう自らの引力を磨きたいものです。

 

根本を見つめる

 枝葉の議論という表現があります。意味としては表面的な議論に終始し、根本的な解決につながらないといったところでしょうか。植物は根があり茎があり葉がありますが、私達は桜といえば花を見て、紅葉といえば枝葉を見るわけで、目につくところに目がいってしまうわけです。


 これは植物ではなく問題に対する場合も同じだと思うのです。問題がある場合には、どうしても目につきやすい部分と、なかなか見えてこない部分もあります。必ずしも目につきやすい部分が問題の解決につながるとは限りません。草刈りをしていると表面の草を刈っても根が残っているため、しばらくするとまた生えてきます。根本的な根の部分を解決しなければ、同じ問題が再燃してしまいます。


 何事においても急所を見抜くことが大切です。それには経験と観察眼だと思うのです。どんなに頑張っていても肝心な部分が欠けていれば成果はあがりません。ただ今風のマニュアルやコンサル的なものに頼っても意味がありません。自分で気づくということが大切なのです。どこまでも広く深く見つめる目を養いたいものです。
 

恐れるに足りず

 失敗や叱責があれば、誰でも落ち込んでしまうことでしょう。人として、この社会で生きていれば誰でも経験することでもあります。偉人伝に掲載されている人でも同じように失敗があり怒られていました。考えてみれば失敗も叱責もあたりまえのことなのです。誰もが経験するあたりまえのことを恐れる必要はないのかもしれません。


 失敗も叱責も歯医者も試験も陰口も敵意も避けることはできず、誰もが経験することでもあります。それらを喜ぶことはできませんが、恐れる必要もありません。まして恐れるあまり逃げる必要もありません。虫歯になれば歯医者に行くのが正しい選択です。失敗を恐れるよりも、挑戦してみること、そして失敗したら謙虚に反省することです。怒られたら素直に謝ることです。


 マイナスと思えることも成長の要因であることがあります。挫折して遠回りしても、それ故にもっと大きな失敗を回避できたのかもしれません。厳しい上司がいたからこそ、他の部署に配属されるよりも鍛えられたのかもしれません。今ではなく5年先10年先にどのように思えるかのほうが大切だと思うのです。そして、それは本人の考え方と努力によって変わってくるものです。何事もプラス思考で乗り切りたいものです。


 

是非も及ばず

 織田信長明智光秀に襲撃されたときに「是非も及ばず」と言ったそうですが、その意味は是非を論じても意味がないといったところでしょうか。本人の気持ちは分かりませんが、歴史的評価からすれば信長の自業自得ともいえるのかもしれません。戦国時代はじめての天下統一を目前に部下によって死地へと向かうわけですが、その無念はいかほどかと思いますが、「是非も及ばず」の言葉通りに仕方がないわけです。


 現代社会においても理不尽なことはあるもので、それをいちいち論じていてもどうしようもありません。すでに起こってしまっことに対して、それが善か悪かと考えることよりも、誰の責任かと断定することよりも、まずは対処するしかないのです。危機的状況にあっては考えることよりも行動することが求められます。「誰が」ではなく「自分」が「何をするか」が大切なのです。


 とっさの行動には、その人が現われるものです。普段の言動よりも、危機的状況での行動を見れば分かるというものです。誤魔化すのことのできない状況にあっては、日々の心がけや鍛錬がものをいい真価が問われます。自衛隊は有事のために日々訓練していますが、我々は危機的状況にあってこそ力を発揮できるよう日頃から胆力を養いたいものです。

苦言or難癖

 以前は、なんでもOKというか、快い返事の人間でした。思うことはあっても、何も言わず認めるというか、黙認していました。些細な違いといっても、その差を埋めることは意外と難しいものです。お互いの納得が理想としても、結構なハードルでもあります。


 相手の間違いや問題を指摘することは特に難しいものです。冷静に話し合うことには忍耐が求められ、円満な解決には相当な人間力や信頼関係が必要です。それなら見ないふりのほうがお互いに楽だと考えていました。ところが、そういう関係では無難ではあっても、成長や信頼はないものです。指摘すること、特に相手が気づいていないのならば教えてあげることが大事だと思うようになりました。


 ところが、相手のことを想い厳しいことを言っているのか、それとも難癖をつけているのか。自分でも分からなくなることがあります。同じ言葉であっても、その言葉にどのような想いを乗せるかで、まったく違うものになると思うのです。また、相手にとっても、その言葉が活きてくるのに5年10年かかるかもしれませんし、永遠に響かないかもしれません。いくつになっても人間関係は難しいものだと思いますが、相手の人間性と可能性を信じ、自分の真心を見失わず、苦言を厭わないようにしたいものです。