慈悲の心とは

 仏教の慈悲について考えてみました。たとえば夫婦関係には欲や利害が伴うのかもしれません。男女であり人生のパートナーであるため様々なものが付随するものです。親子関係になればさらに無償の愛に近づきますが、子供に対しての義務や責任があり、また期待もあるため、純粋とまでは表現できません。これが孫との関係になれば、義務や責任からも解放され、少し離れたところから純粋に見守ることができるのかもしれません。


 仏様も孫を見守るかの如くに、私達を見ておられるのかもしれません。いつも口うるさく説教される訳ではなく、見返りを求められる訳でもなく、条件や利害もなく、ただあたたかく見守ってくださいます。気づけばいつも身近なところにいてくださる存在です。慈悲とは「いつくしみ、あわれむ」と訳されますが、私は嬉しい時も悲しい時もいつも一緒にいてくださると私訳しています。


 人間関係は些細なことでも疎遠になることがあります。親しくてもお互いの感情が衝突すれば争いも起こります。仏様は祖父母をさらに超えた存在ですから、すべてを許し、すべてを受け入れてくださいます。そういった存在を信じることができれば、どけだけ救われることか。ご利益を求めるよりも、けして見捨てることなく自分のことを信じてくださる存在として感謝したいものです。