考えてるようで考えていない

 誘われたときに参加することを前提に考えれば、参加するための口実を考えます。逆に断ることを前提に考えれば、参加しないための言い訳を考えるものです。思考と感情は密接につながっており、思考は感情を尊重し、感情を客観化しているだけなのかもしれません。よく「熟慮しましたが、やはり」という言葉がありますが、多くの場合、自分の感情を理論武装しただけなのです。


 私たちは日々考えているつもりになっていますが、もしかしたらただ感情に流されているだけなのかもしれません。本来は感情を屈服させてこそ思考の意味があるのです。「めんどくさい」とか「逃げ出したい」という感情を抑え、成すべき事を成してこそ思考の価値があるのです。感情に翻弄されているうちは考えているとはいえないのです。
 思考にも浅深があります。まず自分中心の自堕落的な思考があり、そこから自分にとって本当に必要なことは何かと考えられる思考に成長していきます。嫌なことでも辛いことでも「しなければならないことはする」という段階です。感情に負けない強い心が求められる段階です。さらに、自分よりも他者や全体を優先して考えられる段階があります。自分を後回しにしてもまわりを優先できる広い心が求められる段階です。
 


 私は判断に迷ったときには、自分のことばかり考えていないか、正しい答えや本心から逃げていないか、まわりのことを考えているかを基準に考えるようにしています。そうしないと感情に流された身勝手な考え方しかできないのです。講演会などに参加すると自分の愚かな考えを反省させられることがあります。数学の問題ならば唯一の正解がありますが、人生においては必ずさらなる答えがあるものです。深く広くどこまで考えることができるのか、安易な回答に執着しないようにしたいものです。



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