対立の構図

 久しぶりに心から落胆することがありました。相談を受けて段取りしたことが、いつのまにか中止になっていたのです。中止になった理由は組織内の人間関係です。関係者にお願いして補助金の申請もしたのに、それさえ取り下げたそうです。全体の利益を損ない、行政との信頼関係を失墜させ、多くの関係者に迷惑をかけた原因が好き嫌いではあきれるしかありません。人間の感情の恐ろしさを実感しました。損得ならば話しようもありますが、末期的な人間関係は解決しようがありません。


 人間がすることには探せば必ず落ち度があり、いかようにも問題だと追及することができます。しかし、いかに追求しようとも、それだけで問題が解決することはありません。国会における野党の追及のようなものです。破滅的な議論と建設的な議論を線引きするものは信頼関係です。信頼関係のない議論は議論ではなく感情論でしかありません。全体の利益よりも、感情や意地を優先するようになれば、まともな話し合いはできなくなります。


地獄と極楽のたとえ話があります。どちらも同じように大きな鍋にうどんが煮てあり、そのうどんを長い箸で食べなければなりません。極楽の住人はお互いに楽しく食べさせあいます。ところが、地獄の住人は自分が食べることしか考えられないため、身の丈以上の長箸を使いこなせず食べることができません。地獄も極楽もどこか遠い世界にあるのではなく、この世界にあってどのような心で生きているかの違いによって、自らの住む世界が地獄にも極楽にもなるのです。


 歩いていてもお互いに半歩ずつ譲ればぶつかることはあません。このわずか半歩の配慮ができないと衝突するしかありません。人の感情は衝突するほどに憎悪が根深くなり、相手を許すことができなくなります。周囲を巻き込み感情的な対立はさらに広がり深まるばかりです。いかに対立する構造が深刻であっても、お互いに相手の立場を考えらるようになれば解決の道が見えてきます。ところが、お互いに配慮できなければ永遠に対立していくしかありません。場合によっては世代を超えて対立していくこともあります。極楽の住人のようにまず相手を優先し箸を向けるならば、感情的な対立はすぐに解消するのに、それができないところに人間の業の深さがあります。



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