目指すべき境地

 私達は自分のなかであれば自由に物事を考えることが許されています。自分の心においては、どのような想像をしようとも、どのような願望を持とうとも、それを心のなかに留めるなら許容されます。ところが、その想いを外界に発信しようとするならば、すぐさま規制がかかります。言葉も行動もしぐささえもすべて審査されてしまいます。自分が発したものが法律に触れるならば罰せられ、法律に触れなくとも周囲を不快にさせれば有形無形の制裁を科せられることもあります。


 ですから、私達は自分の想いを発信する際には中身を吟味しなければなりません。その基準は人に迷惑をかけないこと、人を不快にさせないことです。このふたつを守ることができれば法律に触れることもまずありません。自分の想いを上手に発信していくためには修練が必要になります。相手に対する偏見や悪意というものは知らないうちに相手にも伝わっているものです。ですから、何を考えても許されるとはいえ、考えていることが漏れ出てしまうならば、そもそも発信できないようなことは考えなければいいのです。


 裏表のない人という表現がありますが、思うがままに生活して相手に迷惑をかけず生きていくことができればまさに理想です。孔子でさえ70歳にしてようやくこの境地を得たと論語にあります。孔子の境地には遠く及ばずとも、自分の心と言動のギャップが少なくなるほど、生きるのが楽になります。自分の心を無理に抑えることほど苦しいことはありません。抑え込む必要がないよう堂々と披露できるよう、いつも整理整頓しきれいにしておきたいものです。




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