庭園のような心

 物事を考える時に、そこに感謝や奉仕の心はあるのかと確認することがあります。不思議なもので欲や怒りはなくならず心の奥底からいくらでも生まれてくる、いわば雑草のようなものです。私達に有益な感謝や奉仕の心というものは、大切に見守らないとあっという間になくなってしまいます。庭の手入れを怠れば雑草だらけになってしまいますが、私達の心も手入れをしてやらないと煩悩だらけになってしまいます。


 心の手入れとは私達にとって有益なものを理解し実践し習慣とし確認を怠らないことです。幸・不幸とは心の環境によって決まることです。まず人が幸せになるために必要な種を見極め心にまきます。次にその種が芽を出し成長できるよう世話をします。外の世界から様々な干渉があるわけですが、惑わされることなく世話を続けていきます。ある程度大きくなれば安心して見守れるようにはなりますが、放置することなく世話を続けなければなりません。


 私達の心とは庭のようなものであり、何を植えて、どのように手入れしていくのか。まさに心とは作っていくものであり、それによって幸せにも不幸にもなるのです。世界でただひとつの自分だけの心を、自分らしく作っていきたいものです。

 

考えることは迷うこと

 念珠づくり体験を受付けていますが、せっかく天然石を配置したのに迷い始めて作り直す人もおられます。ですが、最初のデザインが最も良く、直すほど収拾がつかなくなります。熟慮という言葉がありますが、時間をかければ良いということではありません。私達は限られた時間のなかで最良の判断を下さなければなりません。


 ひとつのことに30分、3時間、3日、3週間と、どれだけの時間をかけるのか。決断することよりも、決断したことを実行することに時間をかけたいものです。決断するにあたり、大切なことは時間をかけることよりも、心を乱さないことです。冷静であるからこそ正しい判断ができるのではないかと思うのです。


 大切な決断ほど心が乱れてしまうものです。この決断によって人生が大きく変わってくると自分でプレッシャーをかけてしまうのです。経験豊かな人ほど直感で決断します。もちろん経験に裏打ちされた直感でなければなりませんが、考えるほど迷いも深くなるのかもしれません。迷いはじめる前に決断したほうが良いのです。喜怒哀楽に流されず欲に翻弄されず、直感を信じてみたいものです。

 

 

 

この世界が嫌になっても

 生きることに疲れるというよりも、この世界が嫌になり人からも遠ざかりたいと思うことがあります。本堂に竹林の七賢の屏風がありますが、画かれている七賢人も俗世が嫌になり山奥に清貧を求めました。この社会は完全ではなく、そこで暮らす人間も善人ばかりではありません。様々な問題があり争いがあり、思うようにはいかないものです。


 仏教では仏様を蓮の花に譬えます。蓮は泥のなかで育ちますが、その花に泥はなく美しく咲いています。仏様も煩悩を抱える人々と共にあっても煩悩に染まることはありません。どのような環境にあろうとも悪しき影響を受けることなく自らを律することができるのです。私などはテレビ、ネット、友人などあらゆるものから影響を受け翻弄されています。かといってすべてを遮断することもできません。


 子供の頃は自分よりも周囲を優先していたように思います。友達が右といえば左に行きたくても右に行っていました。大人になりお互いの選択や価値観を無理に同じにする必要がないと分かりました。それがお互いを尊重するということなのかもしれません。自分の意見や価値観を信頼することができれば、すなわち自分を信じることができれば、一人でも誰とでも楽しく歩んでいくことができるのかもしれません。そのようになりたいものです。

 

 

飽きないためには

 緊急事態宣言が解除される見通しとなりました。感染者の減少や病床稼働の改善によるものなのでしょうが、緊急事態宣言に飽きてきたという空気感も否めないと思います。感染者が減少していても最近は減少数も停滞しており、これ以上続けても変わらない気配があり、何より長期化したことによる疲労と不満が限界に近づいています。そういった空気感が解除を後押ししたのかもしれません。


 どんなことでも長く続ければ飽きてしまうものです。最初のうちは危機感や緊張感があっても、同じ状況が続けば身体的にも精神的にも疲れますし飽きてしまうものです。かといってさらに強い制限をかければ、同じように最初のうちは効果があっても、長くは続かずさらに強い制限が必要になり、自分達の首を絞めることになります。そのため現状のなかで緩急をつけていくしかありません。


 コロナに限らず人間の生活というものは、いかに飽きずに続けていくかが重要です。結婚生活、仕事、趣味、人間関係などすべて長く続けば飽きてしまいます。空気がなければ数分も生きることができませんが、その重要性は認識されていません。しかし、呼吸することに飽きることはなく、意識することもなく死ぬまで呼吸を続けます。飽きることも意識することもなく、空気のようにあたりまえの存在になれば、緊張することも疲れることもなく、いつまでも続いていくのかもしれませんね。

 

 

 

親の忍耐ということ

 大事なことは経験してみなければ分からないものです。いくら周囲が口うるさく言っても本人には響かないものです。このまま大人になったら大変だと言われても、大人の経験がなければ、どのように大変なのかが分かりません。たとえ想像はできたとしても、現実はまた違うものでもあります。ですから、本人の経験を待たなければならないこともたくさんあります。


 すでに経験しているからこそ口を出したくなりますが、見守るしかないという立場のほうが本人よりも苦しいのかもしれません。自分のことではないので自分が頑張るわけにもいかず、アドバイスはしても聞く耳を持ってもらえなければ、どうしようもなく不安やイライラが募るばかりです。ですが、本人の経験、成長、自覚、転機を待つしかありません。この待つという行為の尊さを理解しなければなりません。


 春が訪れれば桜の花が咲きます。時期が来れば自ずと道は開かれていくものです。もちろん本人に応じた道ということになりますが、どのような道であれそれなりに歩んでいくものです。その道にあって「こういうことか」と今までいくら言われても分からなかったことが、自分の身に即して理解できるようになります。その時になって初めて忠告のありがたみが分かるものです。そして「もっと早くから」と後悔するかもしれませんが、そういうものなのです。私達は自分の身に即して成長していくしかありません。親や上司という立場から想うことはたくさんありますが、あきらめることなく信じて、その時を待つしかないのかもしれません。

 

 

5分でできることは

 最近もどかしい思いをすることが多く、5分でできることはさっさとやれと思うのです。やるには準備が必要であったり、気持ちを高めたり、時間がかかることもありますが、圧倒的に多くのことは「やろうと思えば、すぐやれる」ことなのです。そういったことを放置しつづけることで、変化や成長のない退屈な日々になってしまうのですが、自業自得ともいえることです。


 急ぎの仕事は忙しい人に頼めといいますが、忙しい人ほどたくさんの仕事をこなしているものです。今やるべきことをやっていない人が暇な人なのです。何事も習慣であり、面倒と思わず次々にこなしていくことで、物事への瞬発力を高めることができます。棚上げにして借金のように溜め込んでいくと、できないままになってしまいます。できる人ほどすぐにやるものです。


 会社などでの集団行動を見ていると、頑張って働いている人、手を抜いて働いている人、さぼっている人など様々な行動があります。頑張っている人ほど楽しそうであり、さぼっている人ほどつまらなそうに見えてしまいます。自分に与えられた能力、個性、時間などを最大限に発揮することで人生が豊かなります。何もしなければつまらない。何かに夢中になれば楽しくなるものです。