終わらない修行

 仏道修行とは、いかに心の平安を維持するかではないかと思うのです。どのような事態であっても、にこやかにおだやかに暮らせることが理想です。ところが、現実は修行の完成度を測るかのように、もしくは未熟さを見せつけるかのように、心を混乱させる出会いがたくさんあるものです。ある人はイライラさせ、ある人は失望させ、ある人は悲しませ、平安どころではなくなります。


 ですが、考えてみれば鏡は必ず汚れますから、汚れるたびにきれいにしなければなりません。水面は必ず波が立ちますが、おさまればおだやかな水面に戻ります。汚れること、波立つことを、なくそうとすることが修行ではありません。憎悪や嫉妬で心が汚れたならば、それらをぬぐい心を清らかに戻すこと。イライラして心が波立ったならば、その波を静めることが大切ではないかと思うのです。


 人間が生きていれば心が醜く濁ることもあれば、波立つこともあります。それをそのままにしないこと、本来の清らかな状態に戻そうとすることが修行なのです。この修行はいつまでも続きますが、それが生きるということであり、修行だと思うのです。完成ということなく、いつまでも自分の心を向き合っていくことが仏道なのです。あきらめることなく、今の自分をありのままに見つめながら、そんな自分を信じて歩んでいきたいものです。