ダイヤとルビーがどう映るのか

 たとえば入社試験では条件や競争があり、それにより選ばれた人間が就職していきます。けして平等ではないわけですが、私達が暮らす社会システムの多くは不平等なものなのです。学校の試験でも塾に通っている子供、もともと頭の良い子供、勉強にまったく興味のない子供など、様々な子供が同じ試験を受けて順位をつけられていきます。そもそも平等とは何なのか考えさせられますが、いかに考えても今の社会を覆せるものではありません。与えられた条件のなかでしか生きていくことはできないのです。


 しかし、人間が生きる最大の理由である幸福については条件も競争もありません。なぜなら幸福とは感じるものであり主観的なものだからです。本人が幸せだと思えれば幸せなのです。他者がその幸福を否定することはできません。漫画などにバカップルが登場しますが、周囲がどのように考えようとも、2人の世界が幸せなら、その2人は幸福なのです。不平等な社会で暮らしながらも、幸福ということについてだけは等しく平等に得ることができるのです。


 幸せだと思える人が幸せになれるという単純明快なのに、勝手な条件をつけては自らの幸福を放棄する人も多くいます。年収がいくら以上ないと、容姿端麗でなければ、社会的な地位がないと、自分で達成できない幸福の条件を作っては自らを不幸だと嘆くのです。幸福とは遠い世界にある幻想ではなく、もっと身近なところにあり、どのような人にも与えられるものなのです。不幸な人とは他人が持つダイヤモンドに憧れて自らが持つルビーには魅力を感じられないよう人なのです。勝手な優劣をつくり嘆くのではなく、自分に与えられた魅力を充分に発揮したいものです。