心の掃除をお忘れなく

 今回のコロナウイルスでは目に見えない恐怖というものを考えさせられました。目に見えないということであれば、人の心も見ることはできません。それなのに「あの人の心は醜い」とか「心の美しい人だ」と表現することがあります。それは見ることはできなくても感じることができるからこその表現なのです。絶対的な基準があるわけではありませんが、心で生きている私達にとって、相手の心というものにも敏感なのでしょう。


 頻度は人により異なりますが、自分の部屋を定期的に掃除しているのではないでしょうか。トイレも風呂場も玄関も掃除するのに自分の心は掃除しないというのはおかしなものです。心の掃除とは神仏に参拝して謙虚な気持ちになったり、芸術や読書によって感動したり、森林浴や登山をしたり、ボランティアなどで奉仕をするなど、日常の生活から離れた活動が必要なのかもしれません。人により掃除の方法は異なりますが、心を掃除するという意識が大切だと思うのです。


 ただし潔癖症ということもあります。何事においても正しいことを追求し融通の利かいない人もいます。間違ってはいませんが、通常の人間関係においては面倒な人と思われるかもしれません。「水清ければ魚棲まず」という言葉もあのますが、正しいことだけでこの社会が成り立っているわけではありません。自分の心をきれいに掃除することは大切ですが、それを周囲や社会に求めると、かえって苦悩や衝突があるかもしれません。仏教では泥中にあって汚れることのない蓮の花を仏様の象徴と考えます。この社会には様々な矛盾や闇が存在しますが、そういったものに染まらないよう自らの心を修していきたいものです。