私らしい生死

 日本は死というものをタブー視します。たとえば部屋やバスの番号も「4」を控えます。終活という言葉も登場しましたが、家族と死について語らう機会はまだまだ少ないと思います。死について連想するような話は縁起が悪いと言われますが、死が嫌われる理由は誰もが死に対する恐怖を持っているからなのでしょう。誰しも避けることができないからこそ、ひとたび意識するようになると、離れられなくなる恐怖があります。


 ですが人間は死をゴールに生きているようなものです。誰もが死を恐れながらも、幸福な死を求めており、しかもその幸福なる死とは漠然としたイメージでしかありません。死をタブー視しながらも、幸福な死を求めるというのも矛盾があります。いわば目隠しをしてゴールを目指しているようなものです。若いうちは定年退職をひとつのゴールと考えますが、では退職したらどこをゴールと考えればいいのでしょうか。やはりどこかのタイミングで自分の死と向き合わなければなりません。


 仏教では生きることと死ぬことを別々に考えることはありません。生死でセットなのです。その人らしい生き方があり、その人らしい死に方があります。もちろん、死は選べないものですが、死に対する姿勢には「らしさ」があります。避けることができないからこそ、どのように向き合うかが問われます。先人は様々な生死の姿を見せてくれていますが、私も自分らしさを求めて生きたいものです。
 

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