恩義の力

 大石順教という尼僧がおられます。明治生まれの人で、養父に両腕を切られながらも明るく前向きに生きた人です。様々なエピソードが残されていますが、そのひとつに母親と銭湯に行くと両腕のない娘を大勢の人が見に来たそうです。銭湯の主人からは、あなたたちが来ると儲かるから無料で入浴していいと言われたそうですが、順教尼の母親は娘のために銭湯にはいかずタライにお湯を入れて入浴させたそうです。順教尼はその恩を忘れないため、生涯にわたり入浴するときはまずタライに入ってから湯船に入っていたそうです。


 恩を忘れないとか恩義に報いるということが、なくなってきているように感じられます。そもそも「ありがたい」という感覚を理解できない人も増えているのかもしれません。「ありがたい」の反対は「あたりまえ」ですが、何事もあたりまえだと思うようになれば感謝の心は生まれなくなります。親が子供を育てることは当然の義務だとされますが、親子関係をはじめ様々な関係を義務や権利で考えると、温かい心の交流はなくなります。無機質な関係に感謝の心など芽生えません。


 人間は楽なことは簡単にでき、面倒なことはなかなかできません。ところが、面倒と思われることほど人として大切なことなのです。面倒なことを正直におこなうためには、自分を支えてくれる力が必要です。そのひとつが恩義の力だと思うのです。「お世話になったから」という強い気持ちがあるからこそ、なかなかできないこともできるようになるのです。自分が受けた恩義がしっかりと理解でき、その恩義を返そうとするところに人間としての尊さがあります。そして恩義がめぐりめぐっていく社会こそ理想だと思うのです。



応援クイックお願いします
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村