悪意の処理

 言っていることは正しいのにどうしても納得できないという発言があります。それは発言に感情や思惑を感じるからなのかもしれません。怒りや嫉妬を正当化しようとする発言。自分の思惑通りに進めようとする発言。相手を陥れようとする発言。シンプルなはずのこの世界が複雑になるのは、支配したい操作したいという人間の思惑があるからなのだと思うのです。思惑と思惑がぶつかり火花を散らし、この世界が迷宮のようになっていきます。


 この世界はとてもシンプルなものです。古来からの宗教も哲学も突き詰めれば、深淵でありながらもシンプルな真理によって満たされています。人生とは、しなければならないことをおこない、してはいけないことをしないという、二者択一の人生であり、迷うことなどなにもないはずなのです。ところが、現実の生活は苦悩との二人三脚であるのは、シンプルな世界を複雑なものにしているからなのです。その犯人は感情であり、私達は自らの感情をコントロールできないと、人生に苦しむことになるのです。


 たとえば、どうしても許せないことがあった時に、その怒りを処理しなければなりません。誰かに八つ当たりする人がいます。相手の悪口を言いまわる人がいます。顔を合わせるたびに相手を責める人がいます。仕返しをする機会を待ち望む人がいます。自分のなかで猛威を振るう感情に負けた時に、その矛先を誰かに向けてしまうのです。誰かに悪意を向けてしまうと、その悪意が循環し面倒な世界を作りあげてしまいます。イライラしている相手に八つ当たりされると、自分のイライラは人に向けないで自分で処理しろと言いたくなります。そんな私も上手に感情を制御できないのですが、あまり人には迷惑をかけないようにしたいものです。




応援クイックお願いします
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村