比較の根底

 国会では厚労省裁量労働制の根拠データが問題視されています。一般的なアンケートにおいても、実地者の望むような結果を得るための誘導があったり、ひどい場合には捏造されることもあり、作為的な数字を素直に信じることはできません。根拠のある正しい比較というものは難しいものなのかもしれません。たとえば自分の長所と相手の短所を比べて、自分の方が優れていると錯覚しても、そもそもの物差しが違うのですから意味がありません。


 仏教では苦しみは比較から生まれると考えます。そもそもまったく違う人間同士をいくら比べてもどうにもなりません。それなのに「あそこの旦那さんは・・・」とか「隣の子供さんは・・・」と良くも悪くも比較しては一喜一憂してしまいます。もちろん、比較しない生活は簡単に実現できるものではありません。そのため前段階として、正しい比較をすることが必要だと思うのです。隣の旦那さんは高給だと思っても、そのため仕事でほとんど家にいないかもしれませんし、家のことは何もしていないかもしれません。どこか一点だけで比較するのではなく、総合的に比べることが大切です。


 比較とは不満から生まれるものだと思うのです。日頃の不満を比較という形で誰かに投射しているだけなのですから、比較するほど惨めになったり虚しくなります。隣の芝生は青く見えるといいますが、不満を抱えて周囲を見渡せば良く見えるのはあたりまえのことなのです。ですが、感謝の気持ちで周囲を見るならば、お互いに素晴らしい風景が広がってきます。



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