不善なる人々

 孟子は仁は不仁に勝つものだが、コップ一杯の水で車に積んだ薪の火を消すことができないように、少しばかりの仁を実践しても大きな不仁に勝つことはできないと言っています。個人的なところで考えれば、私が言葉ばかりの善者となり、不善の者を責めれば偽善者となります。また、たとえ少しばかりの善を為したとしても、不善なる者を責める資格を有するわけでもありません。


 善と不善を比べれば善を求めるべきですが、それは自分に対して求めるべきものです。この世界から不善が一掃されれば浄土と変わらなくなりますが、善だからといって周囲に押し付けてよいものなのか考えさせられます。自分にとっての善が必ずしも普遍的な善とは限りません。人間の価値観とは個人的なものであったり、相対的なものであったりするものです。そのため独善という言葉もあります。私達は自分が信じる善が正しいものなのかどうかを検証しなければなりません。


 社会的なところで孟子の言葉を考えれば、歪んだ価値観が蔓延すれば、簡単には軌道修正できなくなります。過去の戦争などはお互いの正義を信じた結果であり、また正常な判断ができなくなるような狂気に多くの人々が支配されていたのでしょう。社会とは川の流れのようなものであり、様々な支流がありながらも、最も大きな流れが行き先を決めます。最も大きな流れが、最も正しく優れているわけではありません。社会全体が夢から覚めたように後悔することもあります。


 現代は警鐘が鳴らされながらも、火災は大きくなるばかりです。消火が間に合わず、被害が拡大しているような印象です。仏教では私達の世界を火宅とたとえ、人間はその業火に気づいていないとされます。社会がこれ以上に崩壊しないよう各人が力を尽くさなければなりませんが、各人の善が対立しても争いしか生まれません。個人的な善から離れ普遍的な善を求めなければなりません。そのためには学び独善から脱皮しなければなりません。




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