規範に追われて

 ある番組で社会的規範が人を追い込み苦しめるということが指摘されていました。その番組は依存症の特集で、依存症の夫を持つ妻が、夫の症状がどんどんひどくなっていくなかで、家族や親戚からはどこまでも妻としての義務を求められ、本人も夫を施設に入れることへの罪悪感があり、どうすることもできずに苦しんでいるという内容でした。


 社会は私達に「こうあるべき」という規範を求めてきます。「道路にゴミを捨ててはならない」から「社会のために尽くさせなければならない」まで、できることからできないことまで様々な規範があります。人によっては規範などまったく気にしない人、守れる範囲で守る人、規範に縛られる人などそれぞれの態度があります。


 社会的規範とは各人が勝手なことをして社会が崩壊しないための暗黙のルールであり、また各人が遵守することで怠慢に流されることなく自らを律するためのものです。現在はライフスタイルが多様化し生活における自由度も大きくなり、規範と実生活が乖離しているため、個人の葛藤や世代間のギャップなど社会的規範がかえって人を苦しめることもあります。


 生きていれば様々な葛藤がありますが、私は葛藤とは生き方への模索であり、人は葛藤のなかで正しい答えやより良い選択肢を求めようとします。この葛藤を省略してしまうと、安易な答えしか出せなくなります。日常の些細な事であっても考えるということを疎かにしてはならないと考えます。たとえ未熟であっても自分なりにしっかりと考えた答えを積んでいくことで、時代や周囲に流されない自分なりの生き方ができるようになると思うのです。子供に対しても安易に答えを与えるよりも、自分で考える習慣を身につけなければなりません。


 マニュアル本、ネット、占いなど誰かに答えを求めようとする人が増えています。ですが、参考程度ならまだしも拾ってきたものを自分の答えとして誤魔化してしまうと、自分で考えることも責任を持つこともできなくなります。人生の要所において誤魔化しは通用しません。やはり自分のなかに答えを求めなければなりません。葛藤のなかで悩みながらもようやくつかんだものこそ、自分を救ってくれる唯一の正当なのです。


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