独自ルールと配慮

 新しくオープンした施設に行ったのですが、フラットな入口で靴を脱ぐべきか迷いました。近くに「靴のままお入りください」とあったため安心して靴を履いたまま入場したのですが、そこから段差のある休憩スペースに入ろうとしたときに、また靴を脱ぐべきか迷いました。案内も靴箱もなかったので靴のまま進んだら今度は土足厳禁だと店員さんに言われてしまいました。私の次に来た人も同じように靴のままあがってきてしまいました。それを見ての安心感と中途半端な案内への不信感が生まれました。


 日常の会話においても省略して話すことが多くあります。親しい関係ほど相手も分かっていると思うため「あのこと」とか「そこの」と主語も述語もない言葉として成り立たない言葉で会話をしているものです。それで通じるならいいのですが、限られた範囲を超えた人には伝わらないものです。どの集団にも独自のルールや暗黙了解があります。ですが、他所の人には分からないものです。分からない人に説明もなく独自のルールを押し付けようとすればトラブルが起こるのはしかたありません。


 閉鎖的な集団ほど自分達のルールを説明もしないのに理解できない人を攻撃するものです。「そんなことも分からないのか」と怒られても、それが世間一般に通じる常識とは限りません。伝える努力や理解してもらうまでの忍耐は大切です。意思の疎通とは配慮だと思うのです。相手の立場になって考えてみるということができないと、相手を理解することはできません。一方的に押し付けられたものを拒むのが人情というものです。配慮を感じて、はじめて人は心を開いて理解してくれるのではないでしょうか。

 

 

重すぎる想いは

 人の心には様々な感情や思惑が渦巻いており、自らの心に翻弄されてしまえば、大切な人生を害することもあります。仏教で説くところの無心を心がけなければならないと思うのです。


 たとえば欲のままに、怒りのままに、不安のなかで物事に挑戦しても、思うようにはいかないものです。心が安定していなければ、努力してみても相応の成果を得ることはできません。ですから、正しい心の状態での努力が求められます。


 何をするにも「なんのために」という動機から考えなければなりません。世間では方法論などが重視されますが、努力と忍耐を続けていくためには、確たる意思がなければ長くは続きません。すべては人の想いから始まります。その想いをいかに高めるのか、清めるのかが大切だと思うのです。


 強すぎる思いや重すぎる思いは、かえって失敗を招くこともあります。強すぎる想いは執着や失望に変わりやすいものです。人の心は難しいものですが、私は素直で温かな心を相手に向けることで、心が軽くなり物事が成就すると考えています。自分への執着から解き放たれるよう、朗らかな清風を自らの心に吹かせたいものです。

 

敵を作らず

 人間関係においては両方向において敵を作らないことを心がけています。まずは相手から敵視されないよう態度や言動などに気をつけています。また、本人のいないところであっても陰口にも気をつけます。気をつけるといっても無理をするとか我慢するということではなく、習慣化してしまえばストレスなく実行できるものです。仲間を作ることも大切なのですが、敵を作らないことも重要なのです。自分を敵視する人間がいれば、大事なところでその影響を受けてしまうものです。


 また、自分が人を敵視しないよう気をつけています。相手から敵視されるよりも、自分が誰かを敵視するほうがストレスとなります。憎悪したり失望したりすると、相手への見方が変わってしまいます。相手がどうこうというよりも、自分の見方が変わってしまうことが恐ろしいのです。見方が変われば、それまでの温厚な関係は破綻し、相手の言動すべてにイライラするようになってしまいます。そこから元に戻るのは大変ことです。


 自分も相手もつねに同じということはなく、変わっていくからこそ人間関係は難しいものです。些細なことでもお互い一生の後悔になることもあります。親しき中にも礼儀ありといいますが、どのような関係でもマナーと配慮は大切です。親しい関係ほど破綻すれば自分たちはもとより周囲にも迷惑がかかるものです。道を歩いていてもお互いに半歩ずつ避ければぶつかることはありません。ケンカをすれば、相手が悪いと思うものですが、必ず自分にも原因はあるものです。一足先にその原因に対処できれば、誰とでも良好な関係を築けるのかもしれません。
 

地獄に落ちるのは・・・

 テレビ番組で地獄を特集していました。開祖のお釈迦様は死後のことについては考えるな、今に集中して生きなさいと教えていました。ところが人間というものは死んだらどうなるのかということが気になって仕方なかったようです。そのため仏教においても、いつの間にか死後の世界が説かれるようになりました。それが浄土と地獄です。人間は生前の行いによって死後の世界が異なると説かれます。善き行いによって功徳を積んだものは極楽に生まれ、悪しき行いによって悪行を積んだものは地獄に落ちるとされ、地獄の世界も様々な説かれ、その苦しみもリアルに描写されるようになりました。


 今回の番組では死後の裁判官である十王のひとり閻魔大王が祀られる都内のお寺が紹介されていました。閻魔大王の恐ろしい姿を見ながら地獄の恐ろしさを説かれれば悪いことはできなくなるものです。これらは悪行を慎ませるための仏教の教えなのだと思うのです。同じように極楽の素晴らしさも説かれていますが、対極の世界を具体的に描写することで善き人生を歩ませようとしたのでしょう。


 ところが、いつの間にか地獄というものが説かれなくなりました。誰もが死んだら極楽に往生できると思われるようになりました。因果応報を説く仏教ではありえないことなのですが、おそらく因果応報よりも葬儀や法要の功徳がより強調されてしまった結果なのでしょう。地獄という悪行への抑止力がなくなったことで、人間はより自由に生活するようになったのかもしれません。ですが、それによって悪行三昧となり、気づいたら地獄に落とされていたとしたら悔やみくれません。日頃から功徳は積んでおきたいものです。
 

日々、確認すべきこと

 山奥にある人気温泉地に行ってきました。東北とは思えないほど海外からの旅行者であふれ活気がありました。ただ物価が高いのには驚きました。お客様が多くなるほど経費が抑えられ、安くなるということはないようです。巡礼の世界においても有名な霊場が朱印料を値上げしました。以前は多くの巡礼者で賑わっていたのですが、コロナ禍以前から低迷するようになっていました。聞こえてくるのは霊場の不愛想な対応です。人やお金が集まってくると人間はダメになってしまうのかもしれません。せっかくの魅力を失い、人が遠ざかってしまいます。


 近年は「儲かれば、何でもいい」とか「楽しければ、それでいい」という風潮があります。ですが、食事では偏食が健康を害すると注意されます。食事ばかりではなく価値観も偏ってしまうと人生を害するようになってしまいます。価値観にも多様性や深さが求められます。真面目なだけではなく、楽しさも必要です。ですが楽しいだけではなく、誠実さも必要です。ですが誠実なだけではなく、厳しさも必要です。様々な徳が備わることで、人として完成されていくのです。


 人の思考や価値観はいつの間にか変質してしまうことがあります。「こんなはずではなかった」は後悔してから出てくる言葉です。後悔する前に気づかなければなりません。今の自分の思考は正しいのか、停滞していないか、人に迷惑をかけていないか、このままで良いのか。いつも確認しながら歩むことで、道を誤ることがなくなります。

 

適度な緊張感

 オリンピックが始まりました。各国の代表が厳しい予選を戦い抜き出場する訳ですから、確実に勝てるということはありません。報道を見ていると「金メダル確実」とか「まさかの敗退」とありますが、過剰なのではないかと思うのです。プロ選手でありプレッシャーも必然なのでしょうが、それにしても大変だと思います。勝っても負けても流れる涙は重圧からの解放の喜びなのかもしれません。


 一般の世界にもプレッシャーはあります。私は自分で抱えるプレッシャーは必要なものだと思っています。緊張感は必要ですし、それを乗り越えることで精神的な成長を遂げることができます。最初からプレッシャーを拒否して責任ある立場や挑戦から逃れようとする人もいますが、挑むことの価値に気づいてほしいと思います。


 人間は自分にかけるプレッシャー以上に無意識に周囲にも重圧をかけています。親や上司はもちろんですが、日常の些細な会話にもプレッシャーが隠れているものです。期待と重圧は表裏の関係にあり、自分の期待が相手の重圧になることはよくあります。相手を追い詰めることもありますから、気をつけなければなりません。「そんなつもりはなかった」とよく聞きますが、自覚のないことは恐ろしいことです。自分に対しても、相手に対しても、適度な緊張感をもって臨みたいものです。

 

命の共感

 この世の真理や道理というものは、誰かを特別扱いすることはありません。厳然としており等しく平等であり、理不尽に思えることもあります。人間は自分優先で生活をしています。自らの生命を維持し、家族を支えることを優先しなければならないからです。


 ある国王がお釈迦様に「自分のことを最も愛おしいと思うことは間違いでしょうか」と尋ねました。これに対して「それは間違いではない。ただ、あなたの国民も同じように自分のことを愛おしく思っていることを、忘れず統治するように」と伝えたのです。


 誰もが自分のことを優先してしまえば、この社会は機能しなくなります。誰もが同じように大切な命をもって生きているのですから、お互いに配慮し尊重しなければなりません。利害の一致という協力体制もありますが、それよりも、かけがえのない命の共感が大切ではないかと思うのです。


 死を意識してから本当の人生が始まると聞いたことがあります。楽しいだけの人生ではなく、儚さのなかにこそ人生の尊さがあると思うのです。命の儚さと尊さを知ってこそ、より豊かな人生を獲得でき、また同じように生きている人々の命にも、目を向けることができるようになるのではないでしょうか。