無機質社会の輝き

 先日ある記念式典が無事に終わりました。1年以上前から会議を重ね準備を進めてきたわけですが、刻々とその日が近づいてきて、当日はあっという間でした。コロナ禍にあり規模縮小や祝賀会の中止ということもありますが、なんだか物足りない寂しさを感じました。ですが、終わってしまえばそういうものなのでしょう。旅行などでも、出発前のワクワク感のほうが楽しいのかもしれません。


 本番を迎えれば淡々と終わってしまうとしたら、頑張っても頑張らなくても同じなのかもしれないと考えてしまいます。ですが、事前の様々な心配や苦悩がありトラブルがあり、それらも含めての本番なのだと思うのです。同じイベントでも立場によっても関わり方によって、どれだけ思いを込めたかで大きく違ってくると思うのです。


 何事も表面的なところではなく、想いの部分が大事なのだと思うのです。周囲から見れば些細なものでも、本人にとっては大切な宝物ということもあります。現代は無機質な社会に変貌してきているように感じられます。無機質社会にあって、自らの想いを高め人生を輝かせていかなければなりません。大切なのは関わり方であり、想いの込め方であると思うのです。

 

ミサイル発射

 不満が高まってくると、すべてを投げ出し絶縁したくなることがあります。とんでもない仕打ちを受けたわけではなく、個人的な被害妄想に近いような不満なのですが、自分のなかに渦巻く負の感情は道理も良識もすべて破棄させようとします。しかし、すべて断絶するような行動に出てしまえば、もはやそこに留まることはできなくなってしまいます。


 どのよう時であっても愚かな行動を制御しなければなりません。すべてを投げ出したくなっても、行動につなげてはいけません。短気は損気といいますが、愚かな行動のつけは自分のところにやってきます。ほんの少しの忍耐が足りないことで大きな後悔を背負うこともあります。いかに心が荒れていようとも、大人としての行動をとらなければなりません。


 負の感情は自分を正当化しようとします。私は被害者で相手が悪い、どうして私ばかりが苦労しなければならないのか、日頃の恨みを思い知らせなければならない、こういった想いは不幸の入口なのです。人間ですから様々な想いを抱くものですが、ミサイルを発射してはならないのです。ありのままの感情が行動に直結しないよう制御できる忍耐と良識を兼ね備えた大人でありたいものです。

 

 

儚くとも豊かに

 人生の歩み方はそれぞれで良いと思うのです。目標に向けて懸命に走り続ける人、急ぐことなくのんびり歩む人、遠回りしながら景色を楽しむ人など、人により年代により環境により様々です。大切なことは自分なりの信念や哲学を持つことだと思うのです。それは後悔しないためのものです。他者と比べて自分の人生を考えれば、優越感や劣等感や後悔が生まれてくるものです。


 自分が納得できれば、それで良いのですが、周囲と比較することで自らを苦しめてしまうことがあります。「隣の芝生は青く見える」といわれるほど、周囲が気になり良く見えるものですが、自分を捨てることも、誰かと人生を交換することもできません。与えられた条件と環境のもとで、しっかりと自分の人生を生きるしかないのです。


 ただし、身勝手な自己満足ということでは、人生が豊かになることはありません。謙虚に自らの人生と向き合ったうえでの納得でなければならないのです。「自分さえよければ」という人生ではなく、周囲の評価を求めるでもなく、「何を大切にして、どのように生きるのか」という自分の価値観を大切に、儚い今生の世を豊かに歩みたいものです。

 

批判社会からの脱却

 私はちょうど昭和と平成の狭間の世代です。昭和の価値観も平成の価値観もどちらも理解できるような気がします。昭和は良くも悪くも長く日本に根付いてきた価値観の終焉期といえるのかもしれません。戦争・敗戦・発展・崩壊と目まぐるしい時代にあり、人々の価値観も大きく変化していきました。


 平成になると負の時代となり、不況を背景に社会の価値観も批判が主流になってきたように思います。メディアにより責められ変化を求められ、無言のプレッシャーが社会を覆いストレス社会は加速していきました。政治も労働も教育も価値観も批判され、どうして良いのかもわからず、迷走した30年といえるのかもしれません。


 これからの日本社会を考えれば、まず批判社会から脱却しなければなりません。批判社会においては、誰もが責められないよう、リーダーになろうとしません。また、責められないよう言い訳に終始したり、すぐに誤魔化そうとします。それでは健全な発展はありません。責めたり足を引っ張るのではなく、応援できる社会でなければなりません。令和の時代は平成の延長ではなく、寛容と協力の社会であってほしいと願うのです。

 

亀のような歩みでも

 映画「線は、僕を描く」を観てきました。分野は違えど筆を持つ者として共感できるところが、たくさんあり感動しました。もう少し早ければ、もう少し時間があれば水墨画はじめてみたいとも思いました。「もう少し」というのが言い訳だとは思いながらも、現実は時間的余裕がありません。実は10数年前に水墨画のサークルに通ったことがありました。興味本位のためすぐに辞めてしまったのですが、いまさらながら続けていればと思いました。それなりに10年続けていれば、ご朱印の幅がさらに広がっていたことでしょう。日頃から尻に火がついたように頑張っていれば機を逃さず邁進できるのですが、本気になれなければ成就の機運は遠のいてしまいます。特別な人間がいるわけではなく、特別に頑張っている人がいるだけなのです。私は特別まではいけず「ほどほど」といったところです。亀のように急がず着実に、ほどほどの歩みです。ですが、歩みを止めなければ、遅くとも前には進んでいることになります。これからも自分のペースでのんびり楽しく歩んでいきたいものです。

苦界のなかで

 テレビでヤングケアラーの特集を見ました。それまで言葉は知っていても、どこか遠い世界のことであり、実感がありませんでした。今回は介護をする若者と介護される親を映像で見て、その苦悩を聞いて、涙があふれそうになりました。誰も望んで介護をするわけでも、されるわけでもありません。しかし、そうしなければならない現実がありました。


 現代の日本にあって、こんなにも理不尽なことがあるのかと思うのですが、同情するのは失礼だと思いますし、何か具体的に手助けできるわけでもありません。世界に一つだけの花の歌詞に「一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」とありますが、肥沃な大地に落ちた種もあれば、コンクリートの割れ目に落ちた種もあります。ですが、生まれたその場所しかありません。


 お釈迦様はこの世界は苦界であると教えています。しかし、この苦界だからこそ悟りの花を咲かせることができるともおっしゃっています。綺麗事だと言われるかもしれませんが、真実にするのも、綺麗事にするのも、自分次第なのです。お釈迦様は最も恵まれた立場を捨て、生死の境をさまようような修行をされました。そしてたどり着いた境地があります。それぞれの場所で頑張るからこそ得られるものがあるはずなのです。

 

巡礼とは

 来月、大学生に三十三観音巡礼の法話をすることになり内容を考えています。慈悲を司る観音様ですから、せっかく巡礼をするならご利益を求めるばかりではなく、三十三の観音様を巡りそれぞれから慈悲の心をいただくことが大切だと思うのです。観音巡礼から帰ったならば観音様のようになっていたというのが理想なのです。


 仏教とは仏様になる教えというのが本来の意味だと考えています。信仰の対象である仏様に自分も成れるというのが仏教の特徴です。簡単なことではありませんが、仏様に近づこうとすることが大切です。社会に出れば嫌味な上司、陰口ばかりの同僚、無責任な後輩など様々な人間がいます。しかし、その人達を自分が思うように変えることはできません。


 自分が変わることで、仏様に近づくことで、周囲を感化し変えていくことが大切だと思うのです。そのためには日常から離れ、自分をリセットすることが必要です。社寺仏閣の非日常世界とは、清らかな世界で悪縁をリセットし、自分を良い方向へと導いていくためのきっかけになる場所でもあります。神聖な世界とつながるひとつの手段が巡礼だと思うのです。