奇跡を味わう

 どうしてもバランスの取れない字に苦戦していました。書いても、調べても、どうも上手く書けませんでした。そこでふと確認したことは書き順でした。書き順が間違っており、正しい順番で書いてみると、今までのことが嘘のように書けるようになりました。書き順ひとつをとってもバランスよく字を書くために開発されたものであり、漢字の奥深さに感心させられました。


 何事にも正しい手順というものがあります。この手順を間違うとなかなか成就しないものです。うまく進まない時には自分がおこなっている手順について順番や抜けがないか確認してみることです。うまくいかない時には必ずうまくいかない原因があるものです。その原因に気づくことができれば簡単なことなのですが、気づくことができなければ抜け出すことができないままになってしまいます。


 人生の道順は最短を進む必要はありません。遠回りあり、休憩あり、遊びありだと思うのです。絶対的な答えがないのが人生であり、その答えは自分が作っていくものです。大切なことは他者と比較することなく、自分の人生に自信を持つことです。1人の人間がこの世界に生を受け生きていくことは奇跡だと思うのです。その奇跡を存分に味わえば良いだけなのです。

 

宝在心

 当山の宗旨は真言宗であり開祖は弘法大師です。大師の言葉に「仏法遙かに非ず。心中にして即ち近し」とあります。悟りというものは、どこか遠い世界にあるのではなく、自分の心の中にあるという意味です。仏教といえば厳しい修行や難しい学問というイメージがあるかもしれませんが、実はそうではなく最初から自らの心に備わっていることに気づくためのものなのです。仏教だけでなくは古今東西の様々な宗教や哲学は人間の幸福というものは外に求めるべきものではなく、自らの心を満たすことが大切であると説いています。この共通性は表現が異なっていても真実は一つだということが分かります。


 外界の財宝よりも、心中の宝のほうが素晴らしいと思うのです。財宝は使えばなくなり、人の心を惑わし、使い方を間違えば不幸になります。人生における素晴らしき経験、感動、学び、出会いなどすべて宝だと思うのです。心に素晴らしき宝を蓄えることで心が豊かになります。若い時は物質世界での享楽が楽しいかもしれませんが、加齢とともに味覚が変わっていくのと同じように、物質世界から卒業して心の世界の充足を楽しめるようになりたいものです。上杉家の祈願所の法流を受けていますが、上杉謙信公は宝在心という家訓を残しており、16ケ条からなるこの家訓はすべて心の修養を教えています。興味のある方は検索してみてください。

 

人間を学ぶ

 神仏の御心を知らなければ、それに適った生き方はできません。仏教の教えとは仏様の御心に適った生き方をするための教えともいえます。その生き方の実践は仏教的な幸福への道でもあります。ただ闇雲に学ぼうとしたり修行しようとするよりも、物事の根底にある核心的な部分に意識を向けなければなりません。


 人間関係においても相手の心を知らなければ円滑な関係は築けません。お互いに相手の想いを理解し行動することが大切です。長年、一緒にいると何も言われなくても相手のことが分かり、自然と動けるものですが、それくらい相手を熟知しているわけです。これは、ただ長い時間を一緒にいるだけではなく、お互いの共感の積み重ねによるものだと思うのです。


 無関心・無感動な時代だといわれますが、それでは人間関係を豊かにすることはできません。「待っているよりも、私から」を合言葉に、相手に声をかけ、相手を理解しようとすることです。この世界には色々な人がいますが、様々な経験から人間の多様性を学ぶことは自分を成長させ、どのような人であれ対応できるようにもなれます。相手のことが分からないと不安になります。信じるためには、弱さや愚かさも含めて人間というものを学ばなければなりません。

 

新たなる自分

 朝晩、寒くなってきており近くの山では紅葉も進んでいます。冬が近づくこのタイミングは複雑な気分になります。名残惜しさと雪の心配と、寒暖差とともに募っていくものです。何事においても「途中」が嫌なものです。真冬になれば、どん底になれば、あとは開き直るだけなのですが、マイナスに向かっていく過程が大切であり、そこで踏ん張ったほうが良いのか、いっそ落ちてしまったほうが良いのか、分からなくなることもあります。


 気持ちの切り替えが大切なのです。何事も心からはじまります。気持ちをリセットして、新たなる気持ちで進まなければなりません。ところが、このリセットが難しいのです。自分ではリセットしたつもりでも、リセットしきれずダラダラ流れることがあります。川の流れに逆らって進むためには、強い気持ちと足腰が必要ですが、気持ちだけではなく、流れを変えるだけの力も求められます。


 今の自分に何が必要なのか。流れを変えるために求められている努力や能力を見極めること。そしてあきらめることなく続けることなのです。新たなる力や習慣が身について、はじめて変わることができるのです。人間は想いだけでは変わることができません。私達は弱い自分を支え、新たなる自分になるための支柱を持たなければなりません。自分が勝負できる武器は何か。日頃からここぞといった自分との戦いに勝利できるよう準備を進めたいものです。

 

信じて待ってみる

 この社会に対して憤慨したり失望することがあります。そういった人々の想いが人類の進歩につながってきたと思うのですが、基本的に人間が作り出す社会である以上は完璧であることはありません。社会に対する憤慨や失望は、正しくあるべきだという思いがあるからです。理想と現実を区別せず混同してしまうと、マイナスの感情に支配され心が安定しません。


 社会を善悪や正誤で計るべきではないのかもしれません。社会は完成されたものではなく、いわば発展途上にあり失敗を繰り返しながら成長していきます。憤慨しても失望しても、仕方がないのです。牛歩のように遅い歩みでも信じて見守るしかありません。戦国時代や明治時代と比べても現代の生活水準は飛躍的に進歩していますが、そのためには長い時間が必要でした。


 今の日本は政治・経済・教育どの分野も停滞しています。ですが、失望してあきらめてはいけないのです。良いところも悪いところもすべて含めて認めてあげるしかないのです。人間関係においても、現時点での相手を評価するのではなく、長い目で見守ってあげることも必要だと思うのです。そして社会も相手もその可能性を信じてあげることができれば、自分も救われるのかもしれません。

 

見られたくない部分

 「天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏らさず」という言葉が老子にあります。天の張る網は粗いように見えても、けして逃すことはないという意味です。天はちゃんと我々のことを見ており、悪いことをすれば罰がくだり、良いことをすれば加護が得られるものです。たとえ時差があったとしても、因果応報の理から逃れることはできません。正しく因果と向き合うことが大事なのです。天だけではなく、社会も周囲も見ていないようで見ているものです。ただし自分が見てほしいと思うところではなく、逆に見てほしくないと思うところが見られるものです。ですが、その部分が大切なのです。課題や問題のない人はいません。その課題や問題をそのまま放置するか、着実に克服していくかで、10年先、20年先が大きく違うと思うのです。今の課題や問題を克服できれば、将来的にその課題や問題によって起こったであろう100のトラブルを事前に回避することができます。私達は与えられた課題や問題と向き合っていくことで、大きく成長していくことができるのです。

御心に近づく

 夕方のお参りでは順調だった一日とうまくいかなかった一日と同じようにお参りするのが難しいものです。順調だった時には素直に感謝できるのですが、不調だったり失敗した時の感謝は難しいものです。そもそもどのように感謝すればよいのか。不調も失敗も授かりものであり、意味があると考えることもできますが、そのように考え心から感謝できるようになるには人間的な成長が不可欠です。


 ご利益があれば信じ、なければ信じないというのは表面的な信心だといえます。そこから進んでご利益があってもなくても、変わらぬ信心を養うのが修行というものです。それはご利益を求めるのではなく、どのような一日であったとしても感謝できる心であり、自らの願いを他力本願に求めるのではなく神仏への誓いとして精進することだと思うのです。神仏とはご利益の対象ではなく、感謝の対象であり、自らの精進を見届けてもらう対象でなければなりません。


 自分の考えと神仏の御心がシンクロしなければ、感謝も平安も遠のいてしまいます。神仏の御心をどのように考え、どのように近づくのか。盲目的に祈るのではなく、祈りの質を高めていくことが求められます。本や経典を読んでも理解できることではなく、日々の祈りのなかで体得していくしかないと思うのです。まずはいかなる一日であったとしても同じように感謝できる心を養いたいものです。