侮るなかれ言葉の力

 些細な一言にイライラすることもあれば、救われることもあります。言葉の力は恐ろしくも偉大なものがあります。言葉はどこから生まれるかといえば、人の心から生まれてくるものです。ですから、その人の心を反映しているものです。イライラするのは相手もイライラしているからであり、救われるのは相手の真心が伝わってくるからなのかもしれません。


 いつも一言でトラブルを起こし、損をしている人もいます。一言を大切に心をこめる配慮と習慣が大切だと思うのです。ドタドタ音を立てて歩く人もいれば、ハンドルを持つと人が変わる人もいます。何事も習慣なのですが、習慣とは意識せずに毎日やっていることであり、塵も積もれば山となり、悪癖が続けばトラブルも続きます。


 どのような言葉を使うかで人生が大きく変わることもあります。同じ内容であっても、話し方によって、表現や表情によって、感情の起伏によって、まったく違って伝わってしまいます。その違いが大事なところで作用するのです。不用意な発言とは、心ここにあらずの状態だと思うのです。ちゃんと相手のことを想っていれば、相手を不快にする言葉は出てこないのかもしれません。

 

円満な関係とは

 現在の政府を見ていても適材適所ということを考えさせられます。器用にどんなポジションもこなせる人もいますが、普通は向き不向きがあるものです。あるポジションでは活躍しても、別のポジションではうまくいかないということもあります。相性というか、人とポジションも出会いなのではないかと思うのです。結局、やってみなければ分からないのですから。


 人間関係においても、相手がどういう人なのか、どのくらい信頼できるのか、どのくらい役割をこなせるのか、人によって様々ですから、見抜くということが必要になります。仕事でも結婚でもうまくいかないのは、相手がどいう人間なの理解できないからなのかもしれません。相手とどのように接すればよいのか、柔軟に対応できたほうが良いのです。


 日本には春夏秋冬があり、季節によって服装も食事も違ってきます。相手を無視して考えないことは、真冬にTシャツ1枚でいるようなものです。環境や周囲のことを考えなければ辛いのはあたりまえなのです。相手に適応することも必要なことなのです。人生を楽しんでいる人は敵を作らないという特徴もあります。わざわざ相手の悪意を受けとめるとこなく、上手にかわしているのです。それは相手を理解すればこそ技なのです。

 

 

慈悲の心とは

 仏教の慈悲について考えてみました。たとえば夫婦関係には欲や利害が伴うのかもしれません。男女であり人生のパートナーであるため様々なものが付随するものです。親子関係になればさらに無償の愛に近づきますが、子供に対しての義務や責任があり、また期待もあるため、純粋とまでは表現できません。これが孫との関係になれば、義務や責任からも解放され、少し離れたところから純粋に見守ることができるのかもしれません。


 仏様も孫を見守るかの如くに、私達を見ておられるのかもしれません。いつも口うるさく説教される訳ではなく、見返りを求められる訳でもなく、条件や利害もなく、ただあたたかく見守ってくださいます。気づけばいつも身近なところにいてくださる存在です。慈悲とは「いつくしみ、あわれむ」と訳されますが、私は嬉しい時も悲しい時もいつも一緒にいてくださると私訳しています。


 人間関係は些細なことでも疎遠になることがあります。親しくてもお互いの感情が衝突すれば争いも起こります。仏様は祖父母をさらに超えた存在ですから、すべてを許し、すべてを受け入れてくださいます。そういった存在を信じることができれば、どけだけ救われることか。ご利益を求めるよりも、けして見捨てることなく自分のことを信じてくださる存在として感謝したいものです。

ブレないものを

 独楽が回り続けるのは軸がぶれないからです。素人が作った独楽だと軸が安定しないため思うようには回りません。何事も職人の技量というものは素晴らしいものです。人生においても自分の軸を持っている人は、世の中がいかに変わろうとも、変わることなく生きていくことができるのではないでしょうか。


 近代で見れば明治維新、戦後復興、そして今回のコロナ禍が激動の時代といえます。今までの価値観や社会システムはまったく通用せず、先々を見通すこともできない厳しい状況にあります。不平等であり理不尽であり、誰を責めてもどうにもならない訳ですが、行き場のない不安や憤りを何とかしたいものです。


 何かと敵視されたり同情されたりする飲食店でも、繁盛している店舗もあります。コロナ前から人気であり、コロナ禍にあってもその人気を維持しています。そういうお店は軸がしっかりしているのでしょう。コロナ禍になってから慌てふためくのではなく、以前から頑張っているお店です。これからは現状に対して否定や迎合ではなく、自らの信念を世に問いかけて道を開いていくのが正解なのでしょう。

 

 

罪悪感の日本人

 ふと昔読んだ本を思い出しました。たしか世界を舞台に活躍するビジネスマンと島民の会話です。旦那はどうしてそんなに頑張って毎日働いているんですか。出世するためだよ。出世してどうするんですから。しばらく続いて最後は、南の島でのんびり昼寝でもして暮らすためだよ。旦那、私は毎日そんな生活をしていますよ。という結末だったように思います。


 老後はのんびり暮らすために頑張って働いているビジネスマン、そもそも頑張るということなくのんびり暮らす島民、同じものを求めながら、まったく違い生活をしています。日本人はどちらかといえばビジネスマンタイプの人が多いのではないでしょうか。老後のためにと一生懸命に働いています。童話「アリとキリギリス」を読めば、働くことが大切だと考えるのが日本人です。ヨーロッパのような長期休暇など考えもせず、今よりも未来のために頑張ります。


 私は真面目な日本人が好きです。今よりも未来、自分よりも相手、趣味よりも仕事、この優先順位は外国人には理解できないかもしれませんが、日本人の美徳だと思っています。ただ自己犠牲で成り立つ社会も問題だと思うのです。堕落することなく、もっと今を楽しんでもいいのかもしれません。日本人は罪悪感を感じすぎるのかもしれません。もう少し「今」を楽しみ大切にしていきたいものです。

 

 

やっぱり根性か

 根性論は消滅してしまったのでしょうか。「もう、そんな時代ではありません」と笑われそうです。スポーツ界においても科学的なアプローチが主流になっています。日常生活においても「気持ちの問題ではない」と言われることが多いようです。何事においても効果的・効率的なものが求められ、また科学や医学に頼ることがあたりまえになってきています。


 「さとり世代」と呼ばれる年代があります。特徴として欲がなく、今の自分に満足し、人間関係は程々に、1人の時間を楽しむタイプが多いといわれます。現実的で夢や理想を求めるよりも、無駄を省き合理的な生活に満足します。根性論とは対極をなす世代ともいえます。バブル世代は物欲の生活でしたが、強い欲は強い思いと結びつき、いわば根性の世代ともいえます。無理してでも働き、そしてそれ以上に楽しむ時代でもありました。


 時代によって生活態度も変わるもです。優劣や賛否というよりも、その時代を反映しているだけなのでしょう。ですが、私は人生において最後に必要になるのは強い想いだと思うのです。「なんとしても」という譲れない負けない強い想いが道を開くのです。今のままで過不足ありませんというのは、満足しているのか、それともあきらめているのか、どちらなのでしょうか。仏教は欲による苦しみから解放される教えです。ですが、これからの仏教は欲のない苦しみにも対応していかなければならないのかもしれません。

 

 

ご朱印は仏道修行

 ご朱印ブームは一過性で終わることなく続いているようです。ただブームに便乗した各界のスタンプが登場したり、華美なだけの印刷やゴム印をたくさん押しただけの特別朱印もあり、便乗や方向性を間違えると失望される心配もあります。ご朱印本来の意義を明確に意識して参拝者に対応しなければならないと自戒しています。集客や集金のためにご朱印があるわけではありません。


 ご朱印によって新たなる神仏との御縁があること、ご朱印によって過去の参拝を忘れないこと、そして何より参拝することで心が清められることが第一義だと思うのです。日常を離れ神聖な世界において自らを浄化し、ご朱印によってその安らかな気持ちが少しでも長く続けばと願うのです。


 当山では受付で朱印帳を預かってから本堂内で参拝いただきます。「時間がかかるので、ゆっくりご参拝ください」と伝えています。少なくても3分間はお参りいただきたと思います。何も考えず堂内の清浄な空気に身をゆだねるだけでも心が清められます。七仏通戒偈にある仏教の極意のひとつに自浄其意(じじょうごい)という自らの心を清めることがあげられています。ご朱印をいただくことも仏道修行に通じるものなのです。