変わるのは私です

 私達は相手を変えようと必死になります。もっと頑張ってほしい、もっと優しくしてほしい、もっと勉強してほしい、「もっと、もっと」と切りがありません。また、相手への要望のハードルは高くなるばかりで、相手を苦しめます。お互いに相手に多くを望んでは失望してはイライラしたり争ったりしています。ですが、考えてみれば自分勝手な要求であり、相手にとっては迷惑なだけということもあります。


 他人から言われて簡単に変われるならば苦労はありません。お互いに求めることなくありのままの状態が自然です。しかし、その状態に安住することなく、お互いに良き影響を与え合いながら成長していかなければなりません。自分が変われば、相手も変わります。お互いに責任を押しつけ争う関係から、お互いに認め合える成長の関係を築きたいものです。


 率先垂範という言葉がありますが、言葉で求めるのではなく、自らの行動で相手に求めることが大切だと思うのです。相手に求めたいことをまず自分がやってみる。自分がお手本となり、背中で相手に伝えてみる。すぐに反応を求めることなく継続しながら、それでもダメなら仕方がないと思うことです。ダメなことをさらに求めるとお互いに辛くなるばかりです。変わらない相手にイライラするくらいなら、自分を成長させていったほうが有意義というものです。

 

信じられない時には

 言葉というものは恐ろしいもので、たった一言で今までの信頼関係が崩壊することもあります。自分の一言でそうなることもあれば、第三者の無責任な発言でそうなってしまうこともあります。どれだけ長い付き合いでも、どんなに深い信頼関係でも、それらが一瞬で塵となってしまうことがありますから気をつけなければなりません。言葉というものは人を浄土にも地獄にも導くものです。


 たった一言に翻弄されるのは悲しいことです。信頼していた相手が影で自分のことを悪く言っていたことを聞いてしまった。その途端に今までのような関係が難しくなってしまいます。もはや知らなかったことにはできず、相手の言葉を信じることもできなくなります。しかし、関係が長くなるほど色々なことがあるものであり、許すということができなければ、誰とでも長く付き合うことはできません。


 私達は心ない一言に負けないだけの関係や信念が必要なのです。今までのものを台無しにしてしまうかどうかは自分にかかっています。周囲の悪意や無責任に負けてしまうのか、それとも力強く乗り越えていくのか。後悔の多くは一時の感情に翻弄され、大切なものを失ってしまうことです。大切なものを守るためには、信じられるよう、許せるよう、そして自分に負けないようありたいものです。

 

 

 

一燈照隅

 一燈照隅(いっとうしょうぐう)という言葉があります。私達はそれぞれひとつの明かりであり、自分に与えられた場所を明るく照らさなければなりません。あなたにしかできない役割があり、活躍すべき場所があります。そういった役割や場所に気づけた人は幸せです。あなたに用意されている役割や場所は、ご縁のあった人々との交流のなかにあります。そこでいかに自分の力を発揮し周囲や社会に喜ばれるかを考えることが大切です。その思いがあなたを成長させ明るく輝かせてくれます。自分が必要とされているという思いは大きな活力にもなります。つながりのなかでお互いに支え合い生きる喜びを感じたいものです。


 この一燈照隅という言葉は最澄さんのものです。さらに安岡正篤さんは一燈照隅に萬燈遍照(まんとうへんじょう)という言葉をたしています。最初からできないような大きなことを言うのではなく、自分が責任を持てる役割に最善を尽くすことが一燈照隅であり、萬燈遍照とは一燈照隅の志ある人間が増えていくことで、この社会そのものも光り輝いていくという言葉です。誰か一人に頼るのではなく、誰もがそれぞれの役割を担うことで、この社会も発展していきます。このコロナ禍を乗り越えるためには、すべての人が希望を灯す明かりとならなければなりません。

 

 

授業で必要なのか

 「学習指導要領」の改訂により、高校で金融教育の授業がはじまるそうです。はたして金融の授業が必要なのか疑問です。政府は投資を促進させようとしています。経済成長の安定化といえば、眠った資産の活用といえば、大義名分に聞こえます。しかし、どうしても汗を流して働くといった仕事のイメージからは離れてしまいます。楽して金儲けとまではいいませんが、何でもアメリカの真似をすればよいというものではありません。


 そもそも資本主義発展の要因の一つにプロテスタントの勤勉と清貧があったとされます。働くということに意義を見出していた人々にとっての副産物が資本でした。この発想はプロテスタントばかりではなく、仏教においても日本においても同じような感覚で働いていました。お金のために働くのではなく、神仏のためであり社会のために働いていたのが以前の労働観でした。まさに働けることが喜びでした。バブル崩壊後は働くことの喜びというものが失われていきました。


 世界においても勤勉な民族とされてきた日本人ですが、その美徳を失い嫌々働きながら投資に夢を求めようにはなってほしくありません。教育は時代に応じて変化していくものです。新しい時代の科目も必要ですが、不易流行や温故知新という言葉がありますが、その本質を見失ってはいけません。働くことの尊さとお金の大切さを学ぶ授業になるのか、それとも政府の思惑に踊らされるのか、教える先生も生徒も授業ばかり増えて大変です。 

 

 

自分のルール

 自分なりのルールを持つこと、そのルールを妥協することなく遵守することも大切だと考えています。大人になれば法律を犯さない限り、強制的に罰せられることはありません。周囲からいかにプレッシャーや非難を受けても気にしない人もいます。そういう人は決まって「あなた達にとやかく言われる筋合いはない」といいますが、だからこそ自分でしっかりしなければならないのです。


 仏教には戒律というものがあります。人によっては「あれもダメ、これもダメ」と面倒だと思われるかもしれませんが、そのルールを守ることで正しく生活することができ、結果的に苦しむことがなくなるのです。面倒なルールではなく、幸せになるためのルールなのです。現代日本においては僧であっても戒律遵守の意識がなく、そのため日本仏教は低迷しているともいえます。


 戒律だけではなく、倫理道徳というものが人々の生活の根底にあった時代には、お互いにルールを守り安らかに暮らすことができました。ところが、現在は多様化の時代であり同じルールを全員が守ることには無理があります。強制力がなく、遵守意識に乏しいルールに効果はありません。だからこそ自分で守らなければならないと思えるルールを作らなければなりません。それは信念や美学と表現することもできます。ルールで自分を縛ることで堕落することなく、凛々しく生きていくことができるのです。

 

 

 

これからの自分

 生まれてからずっとこの町で暮らしている人、違った町でも暮らし戻ってきた人、新しくこの町に越してきた人、同じ町で生活していても、その町に対する愛着や満足度は違うのではないかと思います。他の町での生活を知っているからこそ、今の町の良し悪しも分かるというものです。何事においても様々な比較材料を持つことで、よく理解し活かすことができます。


 自分よりも優れた人や頑張っている人と付き合っていれば、自らの未熟さを知ることができます。知ることができるからこそ、改善することもできるのです。自分と同じような人とばかり付き合っていると楽ではありますが、刺激がなくなり惰性に陥ります。環境を変えることで、人生も変わっていきます。厳しい環境に身を置くことで、程好い緊張感で自分を刺激することで、新たなる可能性も見えてきます。


 目の前にあるものがすべてではありません。まだ見ぬ世界を求めることも大切です。これは夢見るということではなく、自分から求めていくということです。私を待ってくれている人や場所があると胸躍らせ冒険に出かけることなのです。まだ完成されていない自分を今後どのように育てていくのか。楽しみにしたいものです。

 

 

何事三度ということ

 依頼を断わられた、見積もりを取ったら高かった、頑張ったけどダメだった。この時点であきらめてしまう人も多いのかもしれませんが、本当はここがスタートラインではないかと思うのです。断られたら次の条件を示したり、さらに熱意を伝えたりします。高ければ値引き交渉や相見積もりをします。成果があがらなければ反省し不足部分を補い次を目指します。最初からうまくいくことはなく、大切なことはあきらめないことなのです。


 すぐにあきらめてしまうのも、しつこくて呆れられるのも良くありません。進むべき時、退くべき時を見極めなければなりません。何事三度という言葉もありますが、私は3回は挑戦や交渉し、それでダメなら次にいくことにしています。もちろん無謀な突進を3回続けても意味はありません。反省と創意工夫が肝要なのです。上手くいかないのは何かが欠けているためです。その欠けているものに気づくことができるのか、獲得することができるかにかかっています。


 できないことができるようになるためには、新しい信頼関係を築くためには、経験を積むためには時間がかかります。一朝一夕で得られるものではないからこそ、失敗する前から心がけておかなければなりません。できる人は早い段階から準備してきた人なのです。「できる・できない」は運や才能よりも、どれだけ心がけてきたかにかかっています。失敗するまで待つことなく、今のうちから来るべきチャンスに向け準備をはじめたいものです。