コロナからの提案

 今回の新型コロナウイルスの蔓延によって世界中が危機的な状況にありますが、視点を変えれば経済活動が停滞することによって、温暖化などの環境問題は改善しているそうです。地球がこれ以上の環境破壊を食い止めるために新型コロナウイルスを誕生させたのかもしれません。人類はこのウイルスを克服し、さらなる環境破壊に進むのか、これを機に歩みを変えるのか、自粛のなかで考えなければならなことなのかもしれません。


 環境ばかりではなく生活を見直す機会でもあります。盛んに叫ばれる新しい生活様式についても考えなければなりません。バブルのころより今日まで美味しいものを食べて飲んで、楽しい旅行に出かけ、様々な趣味を持ち、欲しい物を買って、人生を楽しむことが生きることだと考えられてきたのかもしれません。今回の自粛によって、その多くができなくなり自宅にこもるなかでストレスを感じるのは、そういった生活を望んでいたからかもしれません。


 静と動があるとすれば「動」が中心の生活でした。ですが、バランスを考えるならば「静」も必要なのです。静とは心のやすらぎや平安だと考えます。動の生活は慌ただしく楽しくとも欲と表裏であり疲れるものでもあります。静の生活は一見つまらなそうにも見えますが、極めればおだやかさのなかに感謝と感動を見出すことができます。今回の自粛のなかで虐待が増えたというものは悲しい事実です。せっかく家族とゆっくり過ごせるのに、それをストレスと感じるのは普段の生活を反省しなければなりません。忙しさのなかで失われていたものを見直す機会にしたいものです。 

 

 

嘘がなくても生きられるように

 嘘をついて誤魔化そうとして、かえって収拾がつかなくなったという経験は誰にでもあるのかもしれません。こんなことなら最初から正直になっていればよかったのに、嘘をついたばかりに、見栄を張ったばかり、適当なことを言ったばかりに、軽い気持ちでも行きつくところは後悔です。失敗や弱点は見せたくないという気持ちは分かりますが、隠そうとするほど苦しくなるものです。


 誤魔化す、隠す、騙す、そのどれもが無駄にエネルギーを使うことであり、多くの場合には疲れて嫌になり無意識に自分から露見するよう仕向けてしまうものです。たとえ誰も知らなくても自分だけは欺いていることを知っており、その罪悪感は日増しに増大し我慢できなくなるのです。人間という存在は基本的に懺悔したくなる生き物なのです。それは誰にでも良心があることを証明しているのかもしれません。


 最初から正直である習慣、そして正直であることで相手を不愉快にしない配慮が大切です。失敗したことを、参加したくないことを、相手が間違っていることを、上手に伝えられるようになると嘘をついたり我慢したりする必要がなくなります。嘘も方便とはいいますが、正直であり円満であることが理想なのです。簡単なことではありませんが、日頃の言動を見直し無理せず楽に生活できるようになりたいものです。
 

 

人間力とは信頼力

 子供が遊ぶ積み木を考えても下が大きく上にいくにしたがって小さくならないとバランスが悪く崩れてしまいます。ピラミッドの形が最も安定するのではないかと思います。これは遊具や建物ばかりではなく、学問も下の学年で習ったことをちゃんと習得していないと、必ずどこかで行き詰まってしまいます。さらには人間も土台の部分がしかっりしていないと安定することはありません。


 人としての土台とは人間力だと考えています。挨拶、礼儀、配慮、利他などがそうだと思うのです。利他とは自分のことばかりではなく、相手のことも自分と同じように考えられることです。子供のころに教えられことがどれだけ身についているのか、自然に実践できるのかが人間力なのです。難しいことではなく、やろうと思えば誰でもできるような、基本的なことなのです。ところが、なかなかできないのが現状でもあります。


 こんなに頑張っているのに、素晴らしいアイディアなのに、難関を突破してきたのに、すごい資格を持っているのに、それなのにうまくいかないと思ったら、もっと根本的な人間力について考えてみたいものです。人間力は表現を変えれば信頼力ともいえます。私達は相手のどこを見て信頼するかどうかを決めるでしょうか。大切なのはその部分なのではないでしょうか。表面的な部分ではなく、その人の最も大切な部分が問われるのです。

 

 

想いのその先へ

 5月は書面決議の総会ばかりでしたが、6月に入り通常の総会もありました。議案についての質疑はほとんどないのに、「その他」になると色々な意見が出されます。「こうしたらいいのに」や「こういう問題がある」と提案が続きました。ところが、本人は動く気がまったくなく、自分以外の誰かがやるべきだという態度です。要望や問題を提起しても、その先への責任はなく、言うだけで終わり、提案された側も検討しますで棚上げにして、一年後にまた同じことが繰り返されます。


 地域の課題も個人の問題も自分が動かなければ解決することはありません。「想いのその先」がなければ、その想いは不満となり憎しみとなり自分自身を苦しめてしまいます。想いが正しい形で言葉や行動にならなければ、いかに素晴らしい想いであったとしても、ダメになってしまうのです。要望や問題の提起ばかりではなく、自分の想いを中途半端な形で誤魔化せば、どこかで必ず歪みが生じるものです。


 この社会においては自分の想いに正直に生きられる人のほうが少ないものです。無難に考えれば、相手のことを考えれば、自分の想いを抑えたほうが円満にいくのかもしれません。その選択も間違いではありませんが、未練を残せば後悔につながります。人生は選択の連続ですが、ひとつひとつの選択を誤魔化すことなく、真剣に向き合ってこそ選んだ選択肢が輝いてくるのです。たった一度の人生ですから、本意ではありませんでしたと嫌々生きるのではなく、しっかりと納得して堂々と生きることができるよう想いを高めていきたいものです。

 

 

あなたが背負っているものは

 山の中で暮らし木々を見ているとバランスが重要であると教えられます。枝葉がないと光合成ができず栄養分が不足しますが、茂りすぎると光が遮られ根が弱くなります。手入れをしてやれば理想の状態になりますが、人に頼るようになれば樹木が備える自然の力が弱まってしまいます。本来の自然界は若木が成長し枝葉を大きく広げていき、老いれば少しずつ枝葉が落ち、やがて枯れ倒木しては次の世代の苗床になります。あくまで全体がつながり神羅万象のバランスが保たれています。そのなかから一木だけを取り出して、どうこうできるものではありません。


 私たち人間も個人で完結できることは、ほとんどありません。何事も相手があり全体があり、私達はそのなかの一部なのです。社会の歯車という表現を嫌悪される人もいるかもしれませんが、大小関係なくなくてはならない歯車になればよいのです。つながりのなかで自分という存在を考えることができると、孤独や身勝手に陥ることなく、自らの役割や居場所を得ることができます。人間関係を面倒に感じたり虚しくなる人は、まだつながりが弱いのかもしれません。


 木は不要な枝葉が落ちるとバランスが保たれますが、人間も不要なものを捨てることで身軽になれるのです。しがらみ、こだわり、見栄、憎悪、罪悪感、今の自分がしがみついているものが本当に必要なのか考えることも必要です。年齢とともに様々なものを抱えていくのが一般的ですが、どうせならば価値あるものだけを背負いたいものです。知らぬ間にとんでもない化け物を背負っていたということもありますから、気をつけたいものです。

 

 

大いなる流れのなかで

 あればあったでかまわないが、なければないでもかまわない、という心境が大切だと考えています。これは若者特有の「どうでもいい」という無気力的な態度ではなく、何事に対しても不満なくおだやかに処する姿勢が、日々の安寧を実現してくれるのです。日々の生活において自分の希望の通りになることのほうが稀であり、自分の思い通りにならないからとイライラしていては、せっかくの一日を無駄にしてしまいます。

 人間の生活には様々な波がありますが、どのような状態であったとしても、その状態に支配されることなく抵抗することなく、おだやかでありたいと願います。そのためには動じない心が求められます。ある人は様々な経験から先々を予測して動ずることがなく、またある人はどのような状況にあっても、自分を信じて動ずることなく。または家族、仲間、神仏を信じることで安定する人、古典を学びそこから力を得て安定する人など様々です。

 小川に笹舟を浮かべると、どこまでも流れていきます。ただ上手に流れていくためには真ん中を流れなければなりません。両端に近づくとひっかかって動けなくなります。仏教には中道という教えがあります。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉があるように何事も極端になることを戒める教えです。これによって上手に流れに乗ることができるのです。人生の大いなる流れを制御することはできません。私達が心がけるべきことは、いつも清く正しく真ん中の道を歩むことなのです。

 

 

人間関係の極意

 身近な人間関係ほど難しいと思うことがあります。ご近所さんのように物理的に近い関係、親戚のように血縁として近い関係など様々です。共通することは簡単には決別することができないということです。そのため関係が悪化したとしても継続して付き合っていかなければなりません。ですから、良好な関係を期待するのですが、相手がまったくそんなことは考えない身勝手な人間だった場合には大変です。


 どんなところにも面倒な人はいるものです。学校の卒業や職場の移動など逃げることができれば良いのですが、近所や親戚の関係に終わりはありません。だからこそ忍耐強く上手に付き合わなければなりません。面倒な人ほどこじれると修復が難しくなります。会うたびに胃が痛くなるような関係にはなりたくないものです。


 「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉は人間関係にも活かせるものです。「敵を知り」は相手が不機嫌になるポイントを知ることです。相手がどういう価値観を持っているのか、相手の好き嫌いは何か、今の機嫌はどうなのか、こういったことが分かるということです。

 

 「己を知れば」は自分のどういうところが相手を不機嫌にさせるのか知ることです。自分の価値観や長所と短所、今の自分の心の状態、相手との相性などを知ることです。相手から見て自分はどうなのか、自分から見て自分はどうなのか、このふたつの視点を持てば、今よりは人間関係が円滑になるはずです。相手のご機嫌をとる必要はありませんが、難敵と戦うならばそれなりの準備や心構えは必要だと思うのです。