豪邸にあこがれる愚かさよ

 尊敬する大先輩から聞いた話です。その大先輩は学生時代に新聞の配達と集金をしていたそうです。ある大きな屋敷に集金に行ったら裏口に回れといわれ、裏口に行ったら月末でなければお金は払わないと追い帰されてそうです。別日、今度はボロボロの家に集金に行ったそうです。そしたら釣銭で買い物を頼まれました。しかたなく買ってくると「どうせ、ろくなものを食べてないのだろう」と買ってきたものを食べなさいと渡されたそうです。


 いつもお金をケチっているからこそ大きな屋敷となり、いつも親切にしているからこそボロボロの家なのでしょう。そのように考えるならば、住んでいる家だけで相手を判断しようとは思わなくなります。お金があるから幸福ではないと思いながらも、裕福な生活にあこがれるのが人間というものです。ですが、よくよく考えてみれば正しくはない価値観や判断基準を改めなければなりません。


 せっかく気づいたのに一時的なことで、あとは相変わらずということでは意味がありません。教訓として、感動して、苦労して、学んだことは長く心にとどめておかなければなりません。頭に知識として蓄積するのではなく、心にとどめておくことで大事な時に活かすことができるのだと思うのです。同じ失敗を繰り返すのは心の底から学んでいないからなのです。単なる知識や記憶にすることなく、大いなる学びとしたいものです。

 

 

涙もろくなって

 朝の連ドラ「スカーレット」を見ています。物語もいよいよ佳境に入り主人公の息子が白血病であることが分かりました。息子を見守る母親の姿は涙を誘います。もし独身の頃に見ていればあまり感動することはなかったのかもしれません。ですが、同じように息子を持つ立場になったからこそ、より共感できるのだと思うのです。


 年を取ると涙もろくなるといいますが、様々な経験から共感できるようになり、相手の立場や境遇に立てるようになり、その分だけ感動するのでしょう。それは人として豊かな心を耕しているということでもあります。人生には様々な苦労や試練もあり、生きるほど様々なものを背負うようになっていきます。背負っているものは自分だけのものですが、多くの人に共通するものでもあり、そのためお互いに共感することができるのです。


 山では登るほど疲労も溜まっていきますが、同じように登っている人と出会うと元気になれるものです。同じような時間を過ごしている人がいる、同じような苦労をしている人がいる、こういった同じ道を歩む者との出会いは喜ばしいものです。お互いに励まし支え合うことで困難な道も進んでいくことができるのです。誰もが唯一無二の人生を歩んでいますが、孤立無援の道ではなく、たくさんの人生と交わる道です。様々な出会いが生きる活力となり人生を豊かなものにしてくれます。春は出会いの季節です。素晴らしい出会いを期待したいものです。

 

 

ワークライフバランスの落し穴

 ワークライフバランスという言葉があります。日本語に訳すると仕事と生活の調和となるそうです。安定した仕事(収入)、残業や休日出勤がなく、育児や介護とも両立できる、そういった仕事が普及することで仕事と生活が調和するそうです。ですが、そういった仕事が普及する日が訪れるのでしょうか。また、仕事と生活を別々に考えてしまうことでかえって調和が乱れるのかもしれません。


 仏教では不二(すべてつながりひとつである)と考えます。同じ人間を人種、貧富、男女、老若などで区別しようとするところに争いや差別が生まれます。国境がなければ戦争も起こらないかもしれません。自分の敷地にはゴミを捨てないのに、公共の場所や他所の土地には平気でゴミを捨てる人もいます。これは自他の区別をして、自分以外のものに対して無責任な人です。自分さえ良ければという発想は自分と他人を区別して自分のことばかりを考えることから生まれるのです。


 優れた人ほど区別することなく、自分のことと同じように相手のことも考えるものです。関わりのなかで生きている私達にとって自分のことばかりを考え生活することは、かえって自分を苦しめることになります。お互いに自分のことばかりを考えれば争いや無関心しか生まれません。調和のとれた生活とは物事や自他を別々に考えるのではなく、セットで考えることで安定してくるのです。

 


 

私を裏切らないもの

 使い込んだ筆ほど手になじみ新しい筆よりも使いやすいものです。イメージ通りの線を書けるのは長く一緒にいるからなのでしょう。もちろん筆ですから永遠に使い続けることはできず、穂先が減り割れてくれば使えなくなります。そして新しい筆を使いますが、慣れるまでには時間がかかります。物であっても大切に使い愛着を持ててこそ、そのポテンシャルを最大限に発揮できるのでしょう。


 何事においても自分を裏切らないものというのは、長い時間を一緒に過ごしたものなのでしょう。三日坊主の努力ではなく、日々積んできた努力だからこそ大事な局面で自分を支えてくれます。長く一緒にいたからこそ、ここぞという時には頼りになります。仮にそうでなかったとしたら、自分自身や相手とまだ確かな信頼関係を築けていなかったということです。


 人間は新しいものを求めたくなるものです。新しいものに刺激や魅力を感じるのです。今までの信頼関係を捨て新しいものに走っては後悔するものです。大切なことは飽きることなく不動の価値や信頼関係をつくることなのです。子供が暇だからとゲームをするような、むなしい時間をいくら積んでも意味はあません。目の前のことにどれだけ真剣になれるか謙虚になれるのか。そういう時間のなかで自分を育てていきたいものです。

 

 

打てば響く人間

 西郷隆盛を表した言葉に「小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響く」があります。現代は何を考えているの分からない人が増えているように思います。話をしていても手応えを感じない、親近感を覚えない人が多いものです。冒頭の言葉でいえば、こちらがもっと相手の心を揺さぶらなければならないのかもしれませんが、真剣勝負の会話とまではいかなくとも、熱くなれるような会話がしたいものです。


 ただ相手の想いが強すぎると警戒感や危機感を感じることがあります。意気投合ではなく、多くを期待され求められている、誰かを陥れる密談である、損得や打算の塊である、優越感や劣等感がにじみ出ている、こういった人とはあまり関わりたくないものです。また、あまりにも次元の異なる聖人君子であってもかえって疲れてしまいます。心を許せる程好い関係であり、その関係が自分を育ててくれるというのが望ましいところです。無理せず自分のペースで上っていける関係です。


 西郷隆盛は相手に応じて態度を変えることはなかったと思いますが、相手に応じた関係づくりができたのだと思います。朱に交われば赤くなるという言葉がありますが、普通の人は周囲から様々な影響を受けるものです。ですが、西郷隆盛は相手の機根に応じて、どこまでも深く広い心で相手を感化していったのでしょう。どうせなら良い影響と良い関係を求めたいものです。自然に集まってくる人間というものは、自分と同じような人だといわれます。周囲の人々は自分を映す鏡なのかもしれませんが、意識して人を求めたいものです。

 

 

努力のその先へ

 テレビでアイドルグループが出演していました。総勢46名だそうですが、出演していたメンバーも選ばれたメンバーであり、さらに順位によって立ち位置も決まっているのでしょう。私などは見ていても好みはあれど優劣はつけられません。おそらくメンバーの誰もが小さいころから町の人気者だったのでしょうが、スポーツの世界と同じく上に行けば行くほど激しい競争のなかに進んでいくことになります。


 メンバーの誰もが歌やダンスなど厳しい研修に明け暮れ、さらに自らの個性を磨きキャラを作りファンを獲得しようとしていると思います。各人が全力で走り頑張っていても差がついてしまうものです。この差というものは努力だけでは簡単に克服できないのかもしれません。生まれ持ったものであり、不思議なめぐりあわせであり、想いと努力だけでは手の届かないものがあるものです。


 しかし、センターがスキャンダルで引退したり、何かのきっかけで突然ブレークしたり、世の中は何があるかわからないものです。確実なことはあきらめてしまった人には奇跡は起こらないということです。努力だけでは得られないものがあるとするならば、古来より人事を尽くして天命を待つという言葉がありますが、自分を信じて忍耐強く待つことで、努力のその先にたどり着けるのかもしれません。

 

 

捨ててしまえば楽なのに

 知らないうちにパソコンが不要なデータでいっぱいになっており削除するのも大変でした。人の心というものも様々なものが蓄積しやすく定期的に掃除しなければなりません。特に気をつけなければならないのが怒りと後悔です。とても強い感情であり、いつまでも私達を苦しめ続けるものです。怒りによって怒りを相殺することはできず、後悔にをよって後悔を緩和することはできないのです。どちらも相乗効果でより苦しくなるばかりです。


 私達の心は正反対の感情を向けることで、苦の元凶となっているものを抑えることができます。怒りには感謝を、後悔には希望を持つことで怒りや後悔を小さくすることができるのです。怒りのなかにあって相手に感謝すること、後悔のなかにあって明るい希望を持つことは簡単ではありませんが、それができて初めてマイナスの感情を抑えることができるのです。多くの場合には時間が解決してくれますが、それは解決というよりも心の奥底で保留しているだけであり、同じような状況に遭遇すればくすぶっていた怒りや後悔が再び暴れるようになります。


 人の心とはとても難しいものであり、自らの心を修めるためには様々な経験から学び強き心を育まなければなりません。強き心とは感情に流されることなく、失望には信頼を、妬みには尊敬を、憎悪には愛情を、不安には安心を、正しき心を向けることで自分と相手を救うことができることなのです。自分の感情で苦しんでいると思ったならば、正しき感情で心を満たさなければなりません。そうすることで心の重荷を捨て清々しく生きることができるのです。