日々修行ということ

 「三匹の子豚」では1番目の兄はわらの家、2番目の兄は木の家、末っ子はレンガで家を作りました。オオカミはわらと木の家を破壊しましたが、レンガの家に撃退されました。人生にオオカミ以上に恐ろしい魔物が登場することがあります。そういった時にはレンガの家のようにしっかりとした基礎が必要になります。人生における基礎とは人間性、忍耐力、智恵などです。学校とはこういった基礎を身につけるためにあるはずなのです。


 知識やマニュアルでは人生の苦難に打ち克つことはできません。苦しい時に自分を支えてくれるものを持っておかなければなりません。私ならば修行時代の厳しい経験があるため、あの時に比べればと思うことができます。もし今まで経験したことがないほど苦しい状況ならば、この状況を乗り越えられれば今後の人生は楽になると思うことです。また、家族や地域に迷惑をかけられないという「つながり」も私を支えてくれます。


 そして最も大切なことは日頃の態度ではないかと思うのです。すぐにキレる人、あきらめる人、無関心な人は逆境に打ち克つことは難しいと思います。日々の心がけが大事な局面ではものをいいます。小さな我慢ができない人が大きな困難に耐えることはできません。小さな配慮ができない人が大きな困難にあって周囲との信頼関係によって乗り越えることはできません。人生は日々修行だと思うのです。必ず修行の成果を試される時が訪れますから、その時までに力をつけておきたいものです。

 


 

人間関係の改善

 私はあまり苦手な人や嫌いな人がいません。誰とでもある程度は仲良くすることができす。それはひとつには自分が持つこと以上に相手に対して苦手意識や嫌悪感を与えないよう意識しています。まず面倒なことは言わないようにしています。誰かに頼んだり相談するときには、面倒な人のところにはいきません。また同じように嫌味な人、悪口を言う人、責める人のところにも人は近寄らないものです。こういうことを控えるだけでも人に与える印象は大きく違います。


 また、相手に対しては自分の感情を抑えながらも、相手の感情によりそうように心がけます。誰でも愚痴に正論を返されるのは嫌なものです。答えを求めているわけではなく、心を軽くしたいのです。不安なども同じように解決することを求めているわけではないのです。言われなくても分かっていることを言うのではなく、黙って聞いたほうがお互いのためになります。人間は感情的な生き物なのです。


 また、自分の感情や価値観を押し付けないということも大切です。あの人は嫌い、あの店は最悪と、相手に同調を求めすぎると相手のストレスになります。友人であれば価値観も近いのかもしれませんが、それでもすべて同じということはありません。同じ人はいませんから、自分と同じものを求めてはいけないのです。相手を不快にさせない、相手の感情によりそう、そして相手の価値観や個性を尊重することを実践できれば、人間関係の苦悩は半減するかもしれません。

 

 

苦しい時の決断

 私は苦しい時ほど「今、私は試されている」と考えるようにしています。このまま心が折れてしまうの人間なのか、それとも今回を機に成長できる人間なのか、それはすべて自分にかかっています。幸運を求めるのではなく、他人のせいにするのでもなく、自分がどこまでやれるのかを楽しみながら試せたらと思うのです。


 苦しい時ほど大事な勝負どころなのです。苦しさに翻弄され、そのことに気づけない人が多いように思います。もしかしたら今後の人生が大きく変わってしまうかもしれない局面にあって、苦しさに左右されてはいけません。苦しさからの解放よりも、今後の人生の糧になるような選択をしなければなりません。


 人生とは日々の選択の総和によってつくられていくものです。けして運命や周囲のせいではなく、苦しい時に何を求めたかによって決まるものではないでしょうか。誰しも安楽を求め困難を遠ざけようとしますが、大切なことは困難から逃れようとするのではなく、困難から学び成長しようとする姿勢なのです。

 

 

私はどんな人間なのか

 人の数だけ性格がありタイプがあると思っています。たとえば着実に進む人もいれば、一瞬の閃きの人もいます。自分がどういうタイプの人間なのかを見極めなければなりません。魚は飛ぶことができず、鳥は泳ぐことができません。できないことをしようとするのではなく、自分に与えられた天分を磨くことが肝要だと思うのです。


 着実な人であれば事前の準備や調整の能力を磨くべきですし、閃きの人であれば感覚やセンスを磨くべきです。まずは自分がどういう人間なのかを把握しなければなりません。勝手に決めつけることなく、様々な経験を通して自分を試してみなければなりません。同級会で久しぶりに会ったら驚くほど変わっている人がいるものですが、そういう人は本当の自分に出会えた人なのかもしれません。


 可能性とはつかむものです。たくさんある可能性のなかから自分に合った可能性を上手に選び取らなければなりません。個性の時代といわれながら、個性ではなくワガママが氾濫しているように感じられます。本当の自分に出会うためには、ワガママではなく謙虚に自分と向き合わなければならないのです。

 

 

正しい人間関係

 全国であおり運転を繰り返し暴力をふるい逮捕されたニュースを見ました。おそらくあの状態になるまで、いくつかのハードルがあり、そのすべてを越えてしまったのでしょう。自分で自分を抑えることができず、また周囲の忠告を素直に聞けなかったのだと思うのです。不幸になる人間に共通することに、大切な人からの忠告を聞かず遠ざけてしまい、そして自分をダメにしてしまう人とつるんでしまうということがあります。


 人間関係において自分を甘やかす人間とばかり一緒にいるのは危険です。ダメなものはダメと厳しく接してくれる人間がいてくれることで、越えてはならない一線を目の前にした時に踏みとどまることができるのです。意外とその一線を越えさせようとする人間が多いものです。自分には関係ないと面白がってあおり背中を押す人間もいます。自分の仲間を増やしたいと手招きする人間もいます。


 楽しいだけの人間関係を求めてはいけません。お互いに堕落していく関係ではなく、お互いに切磋琢磨し時には厳しく忠告できる関係を築きたいものです。愚痴をこぼすことも、バカをすることも必要ですが、それだけに終始しないようにしなければなりません。類は友を呼ぶという言葉があります。これは人を選べということではなく、付き合いかたを選ぶということではないでしょうか。自分が正しい関係を築こうとすれば、そうでない人はいなくなります。たった一人でもいいから正しく付き合える友人を得たいものです。

 

 

小さな一歩の尊さよ

 私は日々の生活において「少しでも」という気持ちが大切だと考えています。人間はいきなり大きなことはできません。よく継続は力なりといいますが、たとえ成果を実感できなくても、毎日の少しずつがやがて大きな開花につながるのではないでしょうか。少しでも親切をしたい、少しでも頑張りたい、少しでも役に立ちたいという、その先に道が開かれるのです。少しでもという想いを持つことで惰性から抜け出し昨日と今日と明日が明確に違ってくるのです。


 成果を実感できない単調な道は苦しいものですが、その苦しみに負けることなく、なおかつ苦しみながら進むのではなく、明るく前向きに歩んでいきたいものです。何事も楽しくなければ続かないものです。今の状況をいかに楽しむのか、楽しめるからこそ上達し、素晴らしい出会いがあり、気づけば大きな成果となっているものです。少しでもという謙虚さを持ち、小さな一歩の尊さを感じたいものです。

 

 

心の声に耳を傾けて

 人生には大きく分けて自分が満足する生き方と周囲から感謝される生き方があるように思います。仏教的に表現するならば自利と利他の生き方といえます。ところが、自分が満足するためには周囲の人々も満足できなければなりません。また、周囲の人々を満足させようと思えば自分も満足できるものでなければなりません。突き詰めて考えていくならば最初の視点がどちらであっても、ゴールは同じところなのかもしれません。


 大切なことは自分が選んだ道を正しく歩んでいくことだと思うのです。途中での道草や遠回りも人生の醍醐味ですが、自分に負けてリタイヤすることがないようにしたいものです。どの登山口から登り始めても頂上はひとつしかないように、どのような道であれ正しい道を模索して歩むならば目指すべきゴールにたどり着けるはずなのです。正しき道を歩む人は自分に対しても周囲に対しても嘘のない誠実な人なのです。


 自虐なのか、周囲への復讐なのか、自分で分かっていて不幸になる道を歩む人もいます。しかし、分かっているならば幸福の道を歩むこともできるはずなのです。自分の心が何を求めているのか、その深い所をくみ取り表面的な感情に惑わされなければ誰しも幸せになれるのです。どのような人であれ、その心の奥底には美しい源泉があり、その声に従って生きるならば美しく幸福な人生を歩むことができるのです。