令和の国づくり

 新しい時代が始まりましたが、平成は断絶の時代と表現することができるのではないかと思います。神仏とのつながり、近所との付き合い、会社の人間関係など人と人の関係が断絶した時代だったように感じられます。退屈でつまらない関係だと思うのは信頼関係が築けていないからなのです。お互いに信頼できない楽しめない関係は苦痛でしかありません。大切なことはどのような関係を築くかであり、関係が断絶してしまうのは信頼関係を築けないからなのです。


 平成の時代は誰もがこのままで良いのかという不安があったように思います。心の時代と呼ばれ朱印や仏像が流行ったのも、時代に対する不安の解消として神仏に対する関心が高まったからではないかと思うのです。面倒だからと楽なほうに流され、それゆえ高まる不安に翻弄された時代と評することもできます。


 令和は回復の時代となりたいものです。便利で快適な生活を享受するために失われたものを回復させることで、本当の意味で豊かな生活を送ることができます。昭和の後半から平成は物質的な豊かさに翻弄されました。そのため日本人が培ってきた精神的な豊かさが失われてしまいました。物質的な豊かさと精神的な豊かさを融合することで私達は幸せになれるのです。今の日本を嘆くよりも、新たなる国づくりに前進したいものです。

 

 

適正と適量

 1日の食事の量は決まっており、それを超えれば暴飲暴食となります。何事にも適量というものがあり、その量は人により異なりますから、自分の適量ということを意識しなければなりません。お酒を飲めないのに周囲の真似をして飲めば、周囲は平気でも飲めない人間は酩酊状態となります。大切なことは周囲に惑わされることなく、自分の適性や適量を知ることなのです。それは自分を知るということなのです。


 できないことをしようとすることは苦しみの原因となります。学校では頑張れば何でもできる、すべての人に平等に可能性があると、いわば残酷なことが教えられています。しかし、周囲と同じようには頑張れない自分が嫌になったり、得意なことが何もないことに落胆したりするものです。そういった苦悩のなかから無理することなく、自分なりのペースやスタンスを見いだせた人は幸せです。


 周囲と同じように競争する必要はありません。友達が100点をとったから自分も100点をとる必要はありません。80点で納得できるなら、それでいいと思うのです。これを妥協とか脱落と考えると自分を責めることになり苦しくなります。また、テストそのものを無意味なものだと排斥しても、その主張が認められることはなく苦しくなります。社会や周囲の価値観に迎合しても排斥しても苦しくなるのです。この社会に上手に存在し、翻弄されることなく、無理することなく、こだわることなく、自分なりに生きていきたいものです。

 

ご案内

 連休中は法務多忙のため休ませていただきます。次回の更新は5月8日からを予定しております。今後ともご愛読ください。

愚痴のその先へ

 世界中の愚痴のなかで最も多いのは対人関係の愚痴ではないでしょうか。思い通りにならない相手への想いは愚痴となり、言葉として放出されていきます。人間関係のストレスを溜めないためには愚痴も必要ではないかと思います。誰かに話せば楽になるものです。ただ良識を忘れた愚痴は聞く相手を不快にさせますから、愚痴には愚痴のマナーも大切です。 


 私達は相手を理解しようとしているつもりで、本当は計ろうとしているのかもしれません。目の前の人間の優劣、善悪、損得など、理解ではなく判断なのです。そして計ろうとするから苦しくなるのです。理解とは相手を認めることであり、判断とは評価することです。評価するには条件が必要であり、相手の条件を満たさなければ憎悪や無関心の標的とされてしまいます。このように考えるの人は対人関係のストレスに悩まされ続けます。


 誰しも自分を評価してもらいたいという願望があり、相手の条件を満たそうと四苦八苦するものです。そのため人間関係に疲れてしまうのです。相手を評価せず、相手からの評価を求めなければ、私達はもっと気楽に暮らすことができます。気心が知れてくると無理せず楽な関係を維持できるようになりますが、こういった関係は相性ということもありますが、なにより無理する必要がないという安心感が必要です。ですが、最初から無理しなければ、最初から楽でいられるのかもしれませんね。

 


 

欲をエネルギーに

 人生を楽しむということにかけては団塊の世代は最も優れていると思います。美食・旅行・趣味などまさに人生を満喫しているように見えます。それは敗戦間もないころに生まれ貧しさを知っており、敵国だったアメリカの豊かさを知っており、さらにはその後の経済発展の中心となった世代だからこそ、時間・体力・金銭がそろっている退職後の今を満喫しているのだと思います。


 逆に若い世代は貧しさを知らず豊かさを知らず可もなく不可もない生活をしています。それは貧しさを知らないからこそ豊かさを求めないということでもあります。不幸を知らなければ幸福を実感できず、恩を知らなければ感謝できないのと同じようなものです。仏教では中道といって極端に偏ることを戒めますが、人の生活というものは不足を埋めようとしてバランスが保たれるのかもしれません。


 求めすぎると苦しみを生み出しますが、求めなくても苦しくなるものです。仏教的な生活によって求めないならば満たされますが、普段の生活において無気力でいることは苦しみです。不足を埋めようとするのが人の生活というものであり、不足を誤魔化そうとするのも苦しみなのです。上手に欲と付き合うことも必要であり、欲をエネルギーとして人生を豊かにしているのが団塊の世代のように思います。その賛否よりも人生を楽しもうとする姿勢を見習いたいものです。

 


 

気づくことさえできれば

 人間という存在の身勝手さを実感することがあります。ですが、人は誰しも世界の平和や公共の福祉のために生きているわけではありません。それぞれが自分の生活に一生懸命になっており、そのため周囲の人々と上手に交わることができないこともあります。人間は一人で生きていくことができないわけですが、それでも自分を優先させながら、周囲にも配慮することは意外と難しいことでもあります。


 自分と周囲の天秤を均衡させるためには、余裕がなければなりません。資産・時間・精神・人間性など、すべてにおいてある程度の余裕がなければ、周囲への配慮まで気が回りません。これはお金持ちでなければならないということではなく、日々の生活に翻弄されことが大切なのです。私達はゆとりを持つことで、今まで気づけなかったことにも目を向けることができるようになるのです。


 子供は学びが大切であり、大人は気づきが大切なのです。高尚な真理よりも、困っている、悩んでいる、イライラしていると相手の状態を理解できることのほうが社会においては有益だと思うのです。相手の状態に気づくことができれば、あとは対処するだけです。相手の状態に気づけないからこそ問題が起きるのです。人間関係を豊かにするためには相手の状態を理解できなければなりません。それは相手を理解しようと努める意識と経験によって培われるものです。気づきを大切にしていきたいものです。

 

 

置賜三十三観音ご開帳

 置賜三十三観音では令和元年5月1日より10月31日までご開帳を厳修いたします。そこで観音様についてご紹介したいと思います。観音様の正式名称は観世音菩薩といい、インドのサンスクリット語ではアヴァローキテーシュヴァラといいます。これを日本語に訳すると「世の人々の救いを求める音を観ずると自由自在に救済する仏」となります。ここから世・音・観を取って観世音菩薩と訳されました。


 日本では飛鳥時代に伝えられ現在に至るまで日本で最も信仰されている仏様のおひとりです。奈良時代になると観音巡礼もおこなわれるようになり二世安楽(現世と来世での幸福)を求める巡礼者も多く、観音霊場は全国に広がっていきます。山形県においては最上・庄内・置賜三十三観音を合わせてやまがた出羽百観音として信仰されています。山形県は観音信仰の篤い地域であり独自の観音信仰が発達してきました。


 このうち置賜三十三観音は上杉家の重臣大河ドラマの主人公にもなった直江兼続の後室であったお船の方が、上杉領内でも霊験あらたかな観音堂を選んで定めたと伝えられ400年以上の歴史があります。ご開帳では秘仏の観音像を拝観し参拝することができ、本尊より伸びる御手綱(五色の紐)を握ることで御縁を結ぶことができます。新たなる令和の御代の安寧を願い置賜観音巡礼に出かけてみてはいかがでしょうか。http://www.okitamakannon.com/

 

 

青い鳥症候群

 宗教に救いを求めるのは必然ですが、宗教をコロコロと変え渡り歩く人もいます。そういう人は具体的な結果を求めており、期待している結果を得られないと失望して次の宗教へと移っていきます。ドクターショッピングという言葉もありますが、次々に病院を渡り歩く人もいます。宗教にしても病院にしても現状に満足できず、最良の結果を求めての行動なのでしょうが、私は疑問を感じてしまいます。


 こういったことを別名、青い鳥症候群ともいうそうです。人間は理想と現実の狭間で苦しむ定めにありますが、現実から逃れさらなる理想を求めては、満足できず何事も長続きできない人を表すそうです。しかし理想を求めれば求めるほど現実を受け入れられなくなるため苦悩は増すばかりです。私達に求められることは安易に結果や理想を求めることよりも、足元を大切にすることなのです。


 算数の問題では、答えを求めるためには問題を解かなければなりません。現実世界においても自分に与えられた問題に挑むことなくして答えを得ることはできません。ところが、答えを求めるばかりで問題を解こうとしない人が多いように思うのです。どこからともなく楽して答えを持ってこようとせず、眼前の問題に挑んでいくしかないのです。小学生の夏休みの自由研究をお金で買うことはできても、それは誤魔化しでしかなく本人のためにはなりません。自分を偽ることなく、しっかりと自分の課題と向き合いたいものです。